桂花陳酒
Like a tea tray in the sky.
諸葛亮の死後、五丈原の上空には赤い星がぷかぷかと浮かんで漂っているのがよく見えた。
――と、後に涪《ふ》で、紅茶を飲みながら姜維は鍾会に語った。
*
鍾会は漢中に立ち寄ったとき、諸葛亮の墓を訪ねた。
秋深い森の中を自ら歩いて行った。落ち葉を踏む音がさくさくと鍾会の耳に響いた。
鍾会がこのとき馬に乗っていなかったのは、彼の乗る馬はどの馬も、次々と不運な目にあったからである。鹿毛の馬は桟道で足を取られて骨折して死に、栗毛の馬は腹痛で急死した。芦毛の馬はある朝忽然と行方不明になり、それきり見つかることはなかった。
諸葛亮の墓ないしは廟は、巨大な黄葉の大樹の真下にあった。
黄色い落葉が、雪や落花のように、廟や鍾会たち――彼は数人を伴ってきていた――の周囲に降り注いだ。
その巨木には巨木の神が住み着いていた。
鍾会は、物心ついたときから、神や妖魔、幽鬼の類がよく見えた。
そういう眸を持って生まれたためである。
さて、鍾会は諸葛亮の廟の入口の前に辿り着いた。
衛瓘も同行して来ていた。
鍾会は衛瓘を振り返って言った。
「廟の前に、文字が書かれている。あまり見かけない珍しい書体だ。書かれている文字は〈遇会而開《会に遇いて開く》〉、私の到来をこの予言は待ちわびていたようだ。これは諸葛亮の書だろうか?」
鍾会は扉の前を指差して上機嫌で衛瓘に語りかけたが、衛瓘は怪訝な表情を浮かべて、鍾会の顔も見ずにぞんざいに答えた。
「扉の前にはそんなものは何もありませんよ。ただ、栗鼠が一匹石の上で寝そべっているだけです。昨夜は飲みすぎましたか?」
鍾会はその衛瓘の反応を見て、これはいつもの自分にしか見えない存在を見ているのだと理解して、これ以上話すのを止めた。
衛瓘を含め供の者を残し、鍾会は扉を押し開けた。
重々しい軋んだ音が響いた。
中は暗かった。
しばらく暗闇に目を慣らすために、鍾会は立ち止まったまま、周りをゆっくり見回していった。
ようやく、薄暗くてわかりづらい程度に室内が浮かび上がって来た。
奥には、もうひとつ扉が見えた。
鍾会はさらにその扉を開けた。
隣の部屋も大して暗さは変わらなかったが、ただ窓が穿たれていて、明るい日差しが外の庭から斜めに差し込んできていた。
その先に椅子があり、そこに腰を下ろしている一人の人物がいた。衣服は黒いが、ところどころ露出している肌はひどく白く見えた。
鍾会は尋ねた。
「あなたが、諸葛武侯ですか?」
部屋に座っていた人物は頷いた。
そこで鍾会は、この諸葛亮と日が暮れるまで、様々なことを語り合った。
いつしか窓に宵の明星が輝いているのが見えた。
鍾会は衛瓘や部下たちを待たせていることを思い出し、諸葛亮にそのことを告げた。
それから、もと来た扉を開けて外に出ようと歩きはじめたが、いっこうに外に繋がる扉は見当たらなかった。
初めて訪れた場所とはいえ元来記憶力に優れていた鍾会だったから、ここまであらゆるものが未視感に包まれていることに不信感を抱いた。
やがて、地下道を抜けると地上に出ることができた。
どれほ今まで彷徨ったか。
酷い目にあったと鍾会は考えながら空を見上げた。
夜空が広がっていた。見慣れた銀河が横たわっていた。
たた、多少の違和感がないわけでもなかった。
――はたしてここはどこなのか?
だだっ広い地表が続いていた。森も道もそして諸葛亮の廟も、あらゆるものがここには存在しなかった。
鍾会は靴の先で地面を蹴ってみた。茶色い乾いた土だったが、固くはなかった。蹴られて削られた土は舞い上がり粉々になった。
遠くに巨大な木が見えたので、鍾会はそこまで歩いて行った。かなり足が痛みはじめたころ、ようやく辿り着いた。
その巨木はは金木犀の大樹で、満開の花が強烈な香りを漂わせていた。
木の下に、斧を手にした樵風の男が一人いることに気づいた。
鍾会は、疑問に思っていたことを、男にあれこれ尋ねた。
その結果、ここは月であり、彼の名は呉剛であること、また最近、諸葛亮の空飛ぶ赤い廟が、時折訪ねてくることがわかった。
だが、鍾会は空ではなく地底を通ってここまで来たのである。そのため鍾会は、その説明では納得行かなかった。
――辻褄があわないことは何よりも問題なのではないか。あるいはそれがそもそも間違いなのか?
鍾会は、空飛ぶ廟が発着する港があるという、男が指をさして示す方角へ向けて歩きはじめた。
(完)
(備考)
■Like a tea tray in the sky.
■諸葛亮と赤い星……晉陽秋曰:有星赤而芒角,自東北西南流,投於亮營,三投再還,往大還小。俄而亮卒。(諸葛亮伝注)
■鍾会が諸葛亮の墓(廟)を訪ねる……秋,魏鎮西将軍鍾会征蜀,至漢川,祭亮之廟,令軍士不得於亮墓所左右芻牧樵採。(諸葛亮伝)
■鍾会の眸……中護軍蔣濟著論,謂「觀其眸子,足以知人。」会年五歲,繇遣見濟,濟甚異之,曰:「非常人也。」(鍾会伝)
■呉剛……月の桂を切っている中国の伝説上の人物