2017.11.19
5444文字 / 読了時間:6.8分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

東京飯店

 金の虜囚にして、北宋の元皇帝|趙佶《ちょうきつ》の退屈な転寝。
 趙佶は、寝返りをうった瞬間、過去、同じ動作を行ったときのことを思い出した。
 といっても、趙佶の時間が過去に戻ったわけでもない。
 悪い夢から目が覚めるように、不幸なこの今の人生をなかったことにしたい――というのは、趙佶に限らず、庶民から皇帝、神仙にいたるまで多くの生者が抱く願いである。
 なぜひとつしか自分の人生はないのか――それがこのところの趙佶の目下の不満であり、また打開の可能性を夢見ている部分でもあった。

         *

 まだ北宋が滅亡しておらず彼が皇帝だったころ、東京の李師師のところで、ちょうど同じ角度で寝返りをうった、その繰り返し。
 しかし、あのとき目の前に見えた李師師の顔はどこにも見えず、ただ殺伐としたもと北宋の兵士や将軍たちの亡霊が、代わる代わる自身の周りをうろつくのを、追い払う意欲もわかずに、ただ自由にさせているだけだった。
 趙佶はたまに、彼らは自由気ままでいいな、と思わないでもなかった。
 彼らはいるべき場所である冥府や墓、故郷を離れて、それどころか、故国さえ離れて、北の果、異国の地まで、自由に足を伸ばしてきているのである。
 彼らの望みは何だろうか?
 滅びた祖国の捕らえられた元皇帝の前に現れて、一体なにを望んでいるのか?

         *

 趙佶は優れた画家だった。そのため、彼は凡人には見えない微細なものも逃さず見ることができる眼を持っていた。
 しかし、彼の耳は別段優れたものではなかった。
 李師師は、ときおり鈴のように笑いなから、彼の音楽知識のあやふやさを指摘した。
 ――陛下。先程の部分といまの部分はまったく同じです。旋律もなにもかも。なのに、いつも陛下はいちども聞いたことがないとおっしゃる……。
 また、彼女は次のようにも言った。
 ――陛下。私の音楽の秘密は、小さな弱い節をたくさん散りばめておくこと。それによって大きな節を安心して際立たせることなのです。どんな素晴らしい旋律も、寂しがらせてはいけないのですよ……。
 趙佶は、そんなすべての過去を懐かしんだ。
 ともあれ、趙佶のもとを訪ねた亡霊は、趙佶の目に止まることはできたが、声が届くことはなかったので、最終的には失望して元の場所へ帰っていくことになった。
 自分の姿が、彼に何かを伝えることができたらいいと願いながら。

         *

 皇帝だったころから、趙佶の密かな願望は、複数の人生を生きることだった。
 それは自分が複数になることと同一なのか、そこははっきり決めかねたが、ともあれその野望から、彼は皇帝であると同時に、李師師の馴染みの客であることにこだわったし、また時折はまったく別の趙佶ですらない何者かに成り代わりたいと念じていたのだった。
 嵐のような雨の音。
 この音のせいで、彼は眠りを妨げられて寝返りを打つのである。
 何度も。しかし、何度でも、ではない。

         *

 彼は皇帝だったころ、道君皇帝と呼ばれる程度には道教に凝っていた。
 それでも神仙になる修行を、もっと皇帝だったときに真面目にやっていればよかったというほろ苦い後悔。
 雨のひどい夜、誰か神仙と会話ができればよいと思い、うろ覚えの知識で、召喚のための呪符を自作し、呪文を唱えた。
 ひとりの神が現れた。
 赤い顔と長い髭を持ち、鎧には関という姓の文字があしらわれていた。
 趙佶は以前、関羽に神号を与えたときに会ったことがあったから、彼だとすぐに気づいた。
 しかし、趙佶は関羽の姿を見ることはできても、亡霊たちのときと同じように言葉を交わすことはできなかった。関羽はしばらく趙佶の目の前に立っていたが、やがて飽きて飛び去っていった。
 次に現れたのは桃の木の精だった。
 李師師の住む妓楼の庭に生えていた桃で、金軍によって焼かれた苦情を、耳の聞こえない趙佶に対して紙に書いて手渡した。そして、怒った身振りをひとしきり趙佶に見せていった後、立ち去っていった。
 趙佶は、自作した呪符が尽きるまでは試してみるつもりだったが、二件目ですでにかなり心が折れかけていた。
 ――世俗のことを忘れたいがために神仙と交流したいのに、なぜ焼かれた家の損害賠償のことを知らされなければならないのか。
 しばらく趙佶の呪符に呼び出される神仙は、関羽のような神仙かあるいは桃の木のような妖怪の類だった。
 趙佶が、呪符を数枚残して、失望してもうやめようかと考えたところで、現れたのが一人の瘟神(疫病神)だった。
 この瘟神は、趙佶が、自分相手には聾唖者だと気づくと、すぐに紙筆をとって筆談に切り替えた。
 以下、両者のやり取りはすべて紙に書かれたものである。

         *

――何か用か?
―神仙の方とお話したくて呪符を使っていました。今回は来ていただいてありがとうございます。
――まあいいだろう。
―あなたのお名前は?
――鍾士季。五蘊神の一人だ。
―私と今日は何を話してくれますか?
――なんでも。わしは、優れた書を集めるのが趣味だから、書家として名高いお前が長々とわしと対話すればするほど好都合だ。とはいえ、世俗の話は退屈だな。時間の生まれ方の話でもしようか。
―清談は魅力的です、どんなときでも。とはいえ私はその問題については考えたことがありません。
――なんだ、がっかりだな。わしがいま気になっているのは、時間には何種類あるのか、時間の形は円形なのか、方形なのか、線形なのか、それとも、三角形、あるいは芒角なのか。それとも形はないのか。
―そういえば、李師師は、あらゆるものは、桃の花の形をしているとかつて私に語りました。私の言葉も、私と一緒にいる時間も……。
――なるほど。
―ですから、私がかつて描いた〈桃鳩図〉の桃の花の数々は、じつは私が李師師と話した言葉と時間なのです。
――そうか。わしは、李師師とやらは知らんが、なかなか鋭い洞察力を持った男のようだ。お前の取巻きのなかでは、わしは蔡京と楊戩に会ったことがあるが、李師師も重用してやればお前も亡国の皇帝にならなくてすんだのではないか? 劉邦は張良がいたおかげて漢を建国することができた。司馬昭にはわしがいたから、晋を建てることもできたのだが、わしのいうことに耳を貸さなかったために、不滅の悪名を被ることとなったのだ。
―あなたの言うこと、とは?
――とりあえず、荀勗や羊祜を殺すことあたりだな。まあ、今更どうでもいいことだが。
―たしかに、どちらも既に死んでいますね。
――その通り。
―そういえば先程、関羽が来ていたのですが、あいにく私は声が聞こえなくてそのせいで帰っていってしまいました。
――関羽だけでなく、趙公明もわしより先に来ていたはずだぞ。まあ、あいつらは、わしと違ってお前にそれほど興味がないからな。
―あなたは違うのですか?
――わしは優れた絵や書を何よりも愛しているのだ。誰よりもといっていいかもしれない。だがこのわしの愛情ほど孤独なものはあるだろうか。
―私もその点は同類だと思います。
――なら、わしの考えもまったく手に取るように理解できるだろう。お前の作品も、こんな辺境に残していれば、いずれ蛮族にちり紙にでもされるだけだ。というわけで、わしが預かってやろうと考えているのだが。
―それは、ありがとうございます。
――まあ、気にしなくていい。
―では、私の手持ちの作品を皆お預けしようと思います。ですが、代わりといってはなんですが、ひとつ私の願いをきいていただけないでしょうか?
――ふむ、まあその提案は正直魅力的だ。たとえば、いまお前が書いたばかりのその〈願〉の文字のその曲がり角の部分もなかなかすばらしいものだ。世界の、あらゆる時代のすべての曲がり角がそこに込められている気がする。
―この角度に秘められた意味に気づいていただけるとは、確かに優れた審美眼の持ち主です。そういえばかつて蔡京があなたのことを教えてくれました。瘟神の鍾士季に会ってひどく意気投合することができたと。彼の言ったとおり、皇帝だった時にあなたに会っていれば私もこんなことにはならなかったかもしれないと考えると、自分の愚かさに悲しくなってくるのです。
――蔡京も、まあわりとものの価値のわかる男ではあった。だが、生前のわしほどの才はなかったために、お前の国は滅びることになったのだ。とはいえそれは天数なのだからいつまでもお前が嘆いてもしかたないことだ。それに南宋がまたできたのだから大した問題ではないだろう。
―国のこととしてはそうかもしれませんね。ただ、私自身のこの零落はなかなか諦めきれることでもないのです。今の私には捕虜としての人生しかない、この単調さがひどく耐え難いのです。
――そうか、まあそれは気の毒なことだな。それはそうと、さっき話してたお前の願い事とは?
―はい、そうですね。ここ五国城は退屈な場所で、私はつくづく飽き飽きしているのです。なので、ずっととはいいませんが、ちょっとだけでも私を東京に連れ帰っていただけないでしょうか?
――まあ、できなくはないが、お前が帰国できずここで死ぬのも天数だからな、それは変えることはできん。とはいえ、ちょっとくらい開封へ顔を出すこともできないとは決められているわけでもない。じゃあ今から、行くか。明日の朝に戻れればいいだろう。
―ありがとうございます。どうやって東京まで向かうのですか?
――乗騎の虎に乗ってきたから、特別にそれに乗せてやろう。

         *

 それから、鍾会と趙佶を乗せた虎は、五国城の夜空に向かって飛び立った。
 しばらくして東京の街に到着して、趙佶は、かつて馴染み深かった街を散策した。
 しかし、その東京の風景が随分変わってしまっていることが彼の胸を締めつけた。
 趙佶は、鍾士季に向かって嘆いた。
―ここは、変わってしまいましたね。私は懐かしい場所を求めて来たのに、いつのまにかここは懐かしさとは無縁のよそよそしい街に変わってしまっていたのです。わざわざ戻ってきて死んだ人間のことを考えるのも、辛気臭くて正直やる気が起きません……。
――まあ、そうかもな。じゃあどうする。もう帰るか?
 趙佶は夜空を見上げて、しばらく考え込んだ。
 趙佶と鍾士季の頭上に広がる初秋の夜空には銀漢が横たわっていた。
 趙佶は鍾士季に語った。
―元宵節に李師師を訪ねたときの思い出が忘れられなかったのですよ。あれは美しい夜でした……。
――元宵節は、五ヶ月後だな。
―随分先ですね。
――もしくは、七ヶ月前か。
―それもそうですね。
――帰るか。
―いや……。それもまたやりきれない。どうでしょう、今日は朝までお付きあいいただきたいということで。
――何を?
―もう少し、空を飛んであちこち巡ってみたいのです。
――まあ、それなら構わんが。減るものでもないし。
―ではお願いします。
――いいだろう。では次はどこへ?
―割合、どこでも構いませんよ。どこでもいいからここではないどこかへ。
―わかった。じゃあ、適当に移動するか。

         *

 それから翌朝まで、鍾士季と趙佶を乗せた虎は、世界の上空を駆け巡った。
 インド洋も横断したし、南極の氷山やペンギンも二人は眺めた。アフリカのキリンもピラミッドも、バグダッドの街やローマ、グリーンランド、ハワイの上空もかすめていった。
 最後に夜明けの富士山を日本上空で見下ろしながら、趙佶は五国城へ戻っていった。

         *

 複数の人生を自分が生きることはできないかもしれない。
 しかし、限りなく複数に見えるほど別々の人生を、自分の人生のあちこちの隙間に捩じ込んで確保することは可能である。
 その隠された自分の人生をどれだけ、見出し所有することができるか、それが重要なのだ――と、ある日の趙佶は寝返りを打ちながら考えたのだった。
(完)

 
 

(2016年8月20日)

(備考)

趙佶……(1082-1135)北宋の徽宗皇帝。画家や書家としても有名。金に捕らえられたまま死んだ。別名道君皇帝。
李師師……有名な妓女。趙佶(徽宗)の愛人で、趙佶は李師師のいる妓楼につづく地下道を作って通っていたという。水滸伝などで有名。
関羽……三国志の関羽。徽宗の時代、道教の神として本格的に祀られるようになった。
趙公明……当時、関羽と同列に扱われた元帥神の一人。封神演義で特に有名。また五瘟神の一人でもある。五瘟神には他に鍾士季(っぽい名前の瘟神)もいる。
瘟神……疫病神のこと。五瘟神には、趙公明、鍾士季などがいる。五瘟神ではないけれども、蒋琬もマイナーなところで瘟神になっていたり。
鍾会(鍾士季)……三国志の鍾会。鍾会は死後、瘟神(疫病神)になったらしい(「捜神記」他)。「武王伐紂平話」では、趙公明と共に殷の武将の一人になっていたり。ただし瘟神等の鍾会(鍾士季)は、微妙に表記が異なる(「季」ではない)。
東京……開封のこと。
五国城……金に捕らえられた趙佶がいる場所。
蔡京……徽宗(趙佶)に仕えた宰相の一人。書家としても名高い。水滸伝では楊戩とともに四姦の一人。四姦のその他の人物は、高俅(高毬)、童貫。
楊戩……徽宗に仕えた宦官。水滸伝では四姦の一人。
元宵節……正月十五日の中国の行事。夜に提灯をたくさん飾る。鍾会の鍾会の乱の直前の宴会、水滸伝の李師師関連のエピソードにも登場。

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