優しい世界(魏延と楊儀)
東晋の孫盛は、蜀で、かつて楊儀の亡霊と出会ったことがあったかもしれない。
*
孫盛が蜀に来ていた時期の思い出。
陳寿を超える蜀の歴史書を書こうという孫盛の試みについて。
孫盛には充分な自信があった。
――同時代に生きていたということは、歴史家として別段有利となるわけではない。優れた歴史家に必要なものとはなにか。それは、当事者たちも知らなかった(歴史の舞台に立つのはほとんど凡人である以上当然である)本質や真実、あるいは正解を見出だしてやる眼を持っているかどうか、その視力をどれだけ鍛えられるか、その一点に尽きる……。
彼はいつものようにそんなことを考えながら、成都でうたた寝をしていた。
外の昼下がりの日当たりのいい庭を、蝶々がひらひら飛んでいた。
熟睡している孫盛の脇にある机の上には、書きかけの魏延伝と楊儀伝が隣り合って並んでいた。
陽の光を受けて、鏡のようにそれらは白く輝きを放っていた。
魏延と楊儀の存在の、最新の輝きである。
本体は床に横たわったまま、夢のなかで起きて魂だけ抜けだして歩きまわる孫盛。
――文字や反射光になった姿もまた、彼らのひとつの人生ではないのか?
孫盛は、燭台に残っていた蠟燭を手にとった。
蠟燭は随分短くなっていたので、庭に向かって放り投げた。
猫が拾って、どこかへ持って行った。
*
死ぬ少し前、失意の楊儀は魏延の亡霊としばらく語り合ったことがあった。
魏延相手の会話にしては非常に穏やかだったことは、楊儀にとってかなり意外なことではあった。
これが死ぬ前の時間ということかもしれないな……と、楊儀はぼんやり考えた。
魏延の亡霊はなぜ楊儀の前に現れたのか。
楊儀が死ぬ前、魏延の亡霊は、不意に楊儀の足から植物のように生えてきたのだった。
おそらく自分が死んだ魏延の頭を踏みつけたときに、魏延の魂の痕跡が染みこんだままだったのだろう、と楊儀は考えた。
楊儀は魏延に一つの計画を持ちかけた。
「我々は、ここはひとまず手を組んで、費禕に仕返しをするべきだろう。費禕は我ら共通の仇敵なのだから」
魏延は、不完全な亡霊のためか、かなり生気がない表情で楊儀に答えた。
「まあそれも悪くはないかな」
「どうした、魏文長。貴様がおとなしいと、気味が悪い」
「この俺は、俺のごく一部でしかない。全力の俺のようには振る舞えないな。とはいえ、お前の足に染みこんでおいたおかげで、ようやく復活することができた。たとえ亡霊としてではあっても」
「なぜ、そんなことをしたんだ?」
「勿論、いつか復活して、必ずお前に仕返しをしてやろうと思ったからだ。とはいえ、まずはお前を利用して費禕に意趣返しをする方を優先するのも、まあ悪くはない」
「うむ。わしも別にお前と和解がしたいわけでもないから、良い答えだ」
「お前にほめられると、変更したくなるな」
「どのみち、費禕を始末したあとでいいだろう」
「それもそうだ。俺は費禕の肉を喰らってやらんと気が済まないが、どう分けるか予め決めて置かないか? その時になって、またお前に妨害されるのは避けたいからな」
「そうだな。わしは、費禕の心臓をもらえれば、あとはどうでもいい。最近胃の調子があまりよくないんで、肉はどうもね」
「じゃあ、俺は残りを全て煮込もう」
「わしは蒸したい。……まあどうでもいい話だが」
「それもそうだ」
「よし。ではさっさと費禕のところへ向かおう」
「わかった」
*
「その前に……」
魏延は、楊儀に刀を振り下ろして楊儀を斬殺した。
「――費禕より後回しでもよかったが、お前も亡霊になっておいた方が何かと自由だからな」
しばらくすると、血の海から楊儀の亡霊が、魏延と同じように生えてきた。
「やあ」
魏延が笑いかけると、楊儀は苦虫を噛み潰したような表情で魏延に尋ねた。
「なぜ貴様は、費禕を優先するといったのにわしを先に殺す?」
「亡霊の方が移動が楽だと、あとでふと思いついたからだ。罪人の貴様が領内をうろうろしているところを発見されたら、費禕のところになかなか辿りつけなくなる可能性がある。そんな手間をかけるのは俺はまっぴらだ……」
*
楊儀と魏延が費禕のもとにたどり着いたのは、それから二十年近く後のことだった。
桃源郷に迷いこんだり、いろいろあったからである。
楊儀は費禕のいる漢寿の門を見上げて、恨みをこめて隣に立っている魏延に言った。
「やっと漢寿にたどり着いた。全ては貴様のせいだ」
「近道を使えば、もっと早く費禕の居場所にたどり着けるとあの時は思ったんだからしかたない。二十年も前のことをいつまでもごちゃごちゃと未練がましい奴……」
こうして、魏延と楊儀の二人の亡霊は、生者である魏からの降人郭脩も仲間にひきいれ、無事に費禕を惨殺することができた。
蜀の延熙十六年(253)正月のことである。
費禕の死体から切り出したばかりの心臓を自分の両掌に載せた楊儀は、浮き浮きとした表情で仲間の魏延と郭脩に向かって呼びかけた。
「ついでに劉禅も殺そうぜ」
しかし、郭脩は頷いたが、魏延は首を横に振った。
そして、魏延は楊儀に告げた。
「貴様とは決着をつけるときが来たようだ」
魏延はやおら剣を抜いた。
*
蜀の大将軍である費禕が暗殺された現場は、大混乱を極めた。
そのため、費禕が殺された宴会場に魏延と楊儀の亡霊が現れて費禕を滅多刺しにして、さらに決闘をはじめた――という出来事を目撃した宴会の参加者は決して少なくはなかったにもかかわらず、その中の誰一人として、その光景を酔っ払って見た幻やただの勘違いではないと、考えた者はなかった。
その中には若き日の陳寿もいたにもかかわらず、この事実については、誰もが、真ではなく偽であると決めつけてしまったのである。
真実らしいと自分の狭い知識では思えないために、真実ではないと判断するという愚昧。
こうして人々は、自分にとって自分の世界を脅かさないものしか見ようとしないのである。なんとも愚かなことではないだろうか……。
*
そこで、孫盛は目をぱっちりと見開いた。
これが孫盛が見た、魏延と楊儀、そして費禕に関する真実の歴史の一齣である。
孫盛は、自身の魏延伝と楊儀伝にこの事実を書き入れた。
*
しかし、孫盛が書いたこの魏延伝も楊儀伝も今には伝わっていない。
「惜しいことですよ」と房玄齢はつぶやいた。
房玄齢が登場しているわけであるから、この場面は当然唐の時代の出来事である。
ではこの房玄齢は、どこで誰に向かってつぶやいたのか?
房玄齢がいたのは、自宅の書斎だった。
夜で、蠟燭が灯されていた。その光の下で、彼は書かれたばかりの「晋書」の文章に目を通していたところだった。
また、房玄齢が語りかけていた相手は、彼が仕えた李世民に殺されたその兄李建成――彼は弟の李世民に対してと同程度には房玄齢を恨んでいた――の亡霊である。
(完)
(備考)
孫盛……東晋の人。歴史家。桓温に従って蜀に来たこともある。「魏氏春秋」等の作者として有名。
魏延……蜀の人。諸葛亮死後、費禕に騙されたこともあり、殺された。楊儀とは非常に仲が悪かった。字は文長。
楊儀……蜀の人。諸葛亮の死後、本人的には諸葛亮の後継者になるはずという目論見が外れ、その不満を費禕に漏らしたところ費禕に告げ口され、その結果庶民に落とされ、最終的に自殺した。
費禕……蜀の人。蒋琬の後大将軍となったが、魏からの降人郭脩に宴会中に暗殺された。それが253年の正月のことである。
郭脩(郭循)……魏から蜀に降った人物。費禕を暗殺した。
房玄齢……唐の人。唐の李世民の謀臣。名相としても名高い。また正史「晋書」などの選者でもある。玄武門の変では、杜如晦と共に李世民を助けた。
李世民……唐の太宗。唐の高祖李淵の次男。
李建成……李淵の長男。弟の李世民に殺された(626年玄武門の変)。