2017.11.19
9841文字 / 読了時間:12.3分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

鐘(鍾会とヴァージニア・ウルフ)

■鍾会

 鍾会は死後、中国の疫病神(蘊神)のひとりとして、千年以上の時を生きつづけている。

     *

 ある日、鍾会はロンドンの街で、ビッグ・ベンの鐘の響きに立ち止まり耳を傾けながら考えた。
 ――これからキュー植物園に行って、新しい毒薬の開発に使えそうな植物をとってこようと朝は予定を立てていたが、雨が降ってきて嫌になった……。
 ――どうやら今日の鐘の音は、調子が微妙に外れているな。まるで何者かが見えない手で、糸のように線状の響きを横からつまんで歪めたような形の……。
 鍾会は、黒い傘をさし、鐘の響きについて延々と思索しながら歩いていたが、ふと、今自分が考えた内容を誰かに話したいという欲求が自身の中に沸き起こったことに気づいた。
 ――誰かに会いに行くか?
 鍾会は友人が少ないが、それでもまったくいないわけでもない。千年以上も生きていれば、やはり似たような魂を持った他者にも巡り合えるものである。
 彼は次々に、それなりに親しい人間を思い出し、検討していった。
 ――趙公明……は、今はヨーロッパにはいないか。で、サンジェルマン伯爵は、超古代文明の遺跡に潜ったまま、まだ出てきていなかったはず。姜伯約は、会ったらまた漢朝再興計画を手伝えとか面倒くさそうだし、どのみちこの近くにはいないな……。
 鍾会は、あれこれ友人知人の名前を思い出していったが、生憎、いますぐ会いにいけるような所にいそうな人物はひとりもみつからなかった。
 鍾会は軽く舌打ちをすると、更にぶつぶつと悪態を呟いた。
 鍾会の舌打ちの音に前を歩いていたイギリス人が振り返ったが、鍾会の独り言は英語ではなかったために、何を言っているのかこのイギリス人にはわからなかった。
 そして鍾会は、自分の考え事に熱中していたために、この振り向いたイギリス人の存在に気づくこともなかった。
 ――とりあえず、これ以上ロンドンをうろついていても、無意味そうだな……。
 こうして鍾会は、ロンドンを離れて、話し相手を探すためにどこか別の場所を探すことを決意したのである。
 

■ヴァージニア・ウルフ

 ヴァージニア・ウルフが、ウーズ川の流れの中を歩きながら、今まさに自殺しようとしていたとき、ふと頭上に見慣れない天使か妖精のようなもの――といっても奇妙な東洋人の男の姿だったが――がぷかぷかと浮かんでいるのが見えることに気づいた。
 ――最近はこの辺で東洋風の妖精が見られるようになった?
 ヴァージニアは、かつてロンドンの街を歩いていたとき、何度かすれ違っていった東洋人たちの姿を思い出した。
 それから彼女は、自分の自殺に対する集中力がきれそうになっていることに気づき、頭を振り、頭の中から迷いを追い払おうとした。
 ――今日は私が自殺する特別な日だ。だから、余計なことを考えて決意や集中力が消えてしまったら目も当てられない。あの奇妙な存在は、べつに妖精などではなくて私の邪魔をしようとする悪魔だと考え、もう目をつぶって何も見なかったことにしたほうがいいかもしれない。もう私は川の中を歩いていて、段取りとしてあとは溺れ死ぬだけなのだし、この先は周囲なんか見えなくても問題ないはずだし……。今すぐ死ぬこと以外は、今の私にとってはすべて徒労……。
 ヴァージニアが目を瞑り闇に包まれると、川の流れの音に重なるように男の声が、耳に入ってきた。
「そこの女、少し話がある」
 ヴァージニアの耳は、その言葉に微かに交じる訛を見つけ出さずにいることはできなかった。
 ――あれはどこの訛だろう。インド風だろうか? でも少しやはり違うかもしれない。
 それにしても、とヴァージニアは首を傾げた。
 ――あの男は妖精のような状態のはずなのに、ちっとも神聖さといったようなものは伝わってこなかった。それよりも感じられるのは、骨付き肉の塊が注にぷかぷかと浮かんでいるような奇妙な状態、まるでクリスマスの肉料理が悪戯好きな妖精の魔法で浮かんでいるような、今にも吹き出しそうなおかしさ――むしろ、そんなようなものに似ていると彼女は想像をめぐらせた。
 またヴァージニアは、次のようなことも考えた。
 ――いま、自分の下半身を浸している水の流れは冷たく重たい。この状態はどこか、この川の水全体をあたかも自分のスカートとして引きずって、慣れないパーティー、死者の社交界のパーティーに参加してきているかのようではないだろうか?
 また別の思考の断片、ないしはさざ波。
 ――自殺に向かう今の自分は、小説家であることをやめて今自らが誰かの小説のヒロインになろうと試みているのだ、彼女ははたして悲劇的なヒロインなのだろうか、私だったら彼女をどう扱うだろう、このま彼女の思い通りに死なせてあげるだろうか……?
 ヴァージニアが目をつぶったまま考えにふけっていると、
「おい、そこの女。無視するつもりか?」
 彼女がすっかり存在を忘れかけていた宙に浮かんでいる男が、声を荒げて彼女に問いただした。
 ヴァージニアは、こんな感じの強い調子の乱暴な男の声が、子供のころから苦手だった。
 ――こんな世界の無尽蔵ともいえる粗暴さに耐えきれなくなって、いま私は死のうとしているのではなかったか、なぜ彼は私の神聖であるべき最期の儀式のさなかに闖入してくるのか? 世界はあくまで、私に私の望む役割を演じさせるつもりはないという断固とした意志の顕現が今のこの状況なのか? 私に悲劇のヒロインの役割は与えない、それが神の意思だというのだろうか……?
 しかし、またしても彼女の思索は遮られた。
「ぶつぶつとお前の独り言なんぞどうでもいいから、ひとの話を聞け」
 ヴァージニアは足を止めると、男を見上げて問い返した。
「――何の話を?」
「今日は一日ずっと、ちょっとした思いつきを話せる相手を探し続けていた。だが、わしを見ることができる人間はなかなか見つからず、気がついたらこんな日が暮れる寸前になっている始末だ。イギリスの連中は、昔はもう少し我々のような存在を見る目を持っていたような記憶はあるが。まあ、落ちぶれたものだな、大分、イギリス人どもも」
「我々イギリス人は、妖精を見る目を徐々に失ってきているということですか?」
「さあ、それは知らんが。ただ、今日は一日うろつき回りつづけてくたびれた。正直、話もすっかりどうでもよくなった。今日はお前のような死にかけの女程度にしか出会えなかったし、徒労もいいところだったな……。まあいい。お前と口をきいたら、どっと疲労感が湧いて出た。お前、よくはた迷惑な女だと言われただろう、それで死ぬんだな、まあいい心がけだ」
「ええ、確かにおっしゃるとおりだとはと思います」
「そうだろう。今朝、雨のなか、ビッグ・ベンの鐘の音を聞いた。わずかに音が狂っているから、誰かに話して一緒に馬鹿にしてやろうと思っていたのだが、お前と話をしているうち、もうどうでもよくなった。じゃあな」
 そう言い残して今まさに立ち去ろうとしている鍾会は、手をひらひらとヴァージニアに振った。
 ――ビッグ・ベン? 
 死ぬ前にその単語をまた耳にするとは考えていなかったヴァージニアは、思わず心の中でその単語を反復した。
「ロンドンのビッグ・ベン……」
 ヴァージニアが更に声に出すと、男はまだ完全に立ち去ってはいなかったらしく、振り返ると、彼女の言葉を更にくりかえした。
「ロンドンのビッグ・ベン……が何だって?」
 まだこの男が残っていると思わなかったヴァージニアは内心困惑したが、ともかく答えた。
「いえ、昔、私はあの鐘の音のことを小説に書いた――ということをふと思い出したのです、ただそれだけ」
「その小説の名は?」
「『時』……」
「似たようなタイトルの微妙な小説はいくらでもあるからよくわからん。お前の『時』はどの『時』だ?」
「ええと、正確には、それは改名する前の題です。改名後の名前は『ダロウェイ夫人』、出版された本のタイトルもそう……。ただ、今になってまたもとのタイトルに戻そうかと考えているんです。今の私の判断力にあまり自信はないけれど……」
「ああ、『ダロウェイ夫人』か。それなら聞いたことはあるな。ならお前はその著者ヴァージニア・ウルフということか。こんな所で何してるんだ?」
「ええ。私は頭がおかしくなって、小説が書けなくなったので死のうかと……」

     *

「なるほど。それはご苦労なことだ」
 鍾会がそう冷淡に言い放ったあと、どちらも口を開かなかったので、沈黙が二人のあいだに訪れた。
 川の波音に、それがあたかも音楽であるかのように耳を傾けながら、ヴァージニアはむかし彼女自身が考えたことの断片を思い出した。
〈……沈黙と静寂は似ているようでいて同じではない。むしろ、対義語のような存在ではないのか? 沈黙がある場所に静寂はない。この水の音、風の音、鳥のさえずりの音に満ち溢れた森の小径のように。また、逆に、静寂のある場所に沈黙はない。たとえば、どこかのパーティー会場のような。多くの小説家たちが一度は記述せずにはいられなかった群衆の中の孤独、静寂。そこにあっては、どんな音も自分の心に響くことはないのに、おしゃべりに満ち溢れている場所……〉
 ――たぶん、こんな感じの内容だったと思うけれど。でも思考力だけでなく最近は記憶力もひどくなったからよくわからない……。
 それにしても、ヴァージニアにとってこの状況が続くことはは正直、苦痛だった。
 この男には立ち去ってもらうか、でなければ何か適当な会話でもして自分の世界に入り込まないように追い払いたいと考えた。
 そういうわけでヴァージニアは、ひとつだけ心に浮んだ自分がこの男と話すべきことを、話してみることにした。
「すみません、ひとつお願いをしてよろしいですか? あなたは、天使かあるいは妖精のように見えるので……」
「そんなようなものには違いないが、ただできいてやる義理はないぞ?」
「ええ、それは勿論だと思います。お礼は必ずせていただきます。私にできることは大してないですが……」
「まあ、話くらいは聞いてやってもいい。どうせ暇だしな。もしかすると、お前には価値なくみえても、わしにとっては価値があるといったものをお前は提供できるかもしれんしな」
「ありがとう……。お願いというのは、私は今この川で自殺しようとしているのですけれど、さっきから、なかなかうまくいかないのです。どうやったら確実に死ねるか、助けていただけないでしょうか?」
「なるほど、それならわけもないことだ。てっとり早くわしが縊り殺してやってもいいが、今日は生憎そんな気分ではない。人を殺すのはわしの仕事だから、時間外、管轄外で仕事でもないのに人間を殺すのは基本的に嫌でたまらない。つまり、気が乗らない……。ということで、わしがお前を殺してやるというのはやる気がないが、かわりに、確実に死ぬことができる道具を貸すくらいなら助けてやってもかまわない」
「ありがとうございます。それで充分です。なんて感謝すればいいのか……」
「感謝も必要だが、報酬もやはり必要だ」
「では、何を差しあげれば?」
 男は地上に降り立つと、コートのポケットに両手を突っ込んで、ヴァージニアの立ち止まっている川原を歩きまわりはじめた。
 それから、ヴァージニアに向って言った。
「お前はこの国では、そこそこ知られた小説家だろう。お前が死ぬのは勝手だが、その才能まで道連れにされるのは惜しいな」

「お言葉ですが、私は最近は頭がおかしくてもう何もかけないのです。ですから、新作を書けなくなった小説家には、もう惜しまれるような才能もないのです」
「ああそうかもな。だが、お前にはもう引き出せなくなっただけで、才能自体はまだある程度、お前のなかに残っている可能性は高い」
「そういうことでしたら、私はその条件で全然構いません」
「では、取引成立だな」
 男が口角を上げるのを見て、ヴァージニアもつられるように微笑んだ。
 それからふと、男の被っている帽子のデザインはとても洒落ていると思った。
「まあ、いいだろう。では、必ず水の底に沈む魔法の石を貸してやろう」
「魔法の?」
 ヴァージニアは思わず尋ねた。
「そうだ。このあいだわしが散歩していて偶然見つけて拾ってきたわけだが、これはストーンヘンジの近くによく落ちているのを見かけるな。あと、アヴァロンだともっと効率よく採ることができるかもしれない。まあ、凡人にはどうせ普通の石ころと見分けはつかんが」
「アヴァロン? では、もしかしてアーサー王には会ってきました?」
「このあいだ見かけたのは、その姉のモーガン・ル・フェイだけだったな」
「モーガン・ル・フェイ……」
 ヴァージニアの心の中に、モーガン・ル・フェイを中心とする、小さな想像上の風景が浮び上がってきた。
 ――アヴァロンの湖の辺りを、アーサーの異父姉の魔女モーガン・ル・フェイが魔法の鍋を抱えてゆっくり歩いている。彼女の全身の輪郭は蔦の茎のようにほっそりとしていて、風に細かく靡く水色の衣裳の裾は、湖とひとつながりのようにも見える。その繋がりについてだけは今の自分にも似ている気がするが……。
 ヴァージニアは、首を傾げて更にこのイメージを広げるための思考や言葉を続けようと試みた。しかしらそれはうまくいかなかった。
 ――彼女のあの横顔を表現するぴったりとした言葉を私はなんとかして見つけ出したいと願ったけれど。でも、やっぱりもう何も思い浮かぶことはない……。
「わしは、モーガンルフェイのことなどどうでもいい。あれはひどく性格の捻くれた女で思い出すのもうんざりする。――それよりお前、この拾った石はいるのかいらんのか?」
「いります、ありがとうございます。私がその辺で拾った石ではポケットにつめこんでもうまく行かなくて……」
「それはお前が効率のいい石の使い方を知らない馬鹿だからだろうな。ともかく無能力なのは仕方ない、わしが必ず溺死させてやることは保証しよう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、渡そう。これだ」
 鍾会は、コートのポケットのなかから手を取り出すと、小さな石を指先でつまんで、ヴァージニアに見せた。
 ヴァージニアは、広げた手のひらで受け取った。
 それは豆粒ほどの大きさの石で、見た目よりもさらに軽く、ほのかに赤みがかった色をしていて、形は花か鳥の輪郭のようにもみえた。
 ヴァージニアはその石の形によく似た花のことを思い出そうとしたが、結局これも何も思い浮かばなかった。

     *

 それからヴァージニアは、受け取った魔法の小石をポケットに入れた。すると、石はヴァージニアの掌の中で、徐々に重さを増していった。
 そうして、あたかも、地球一つとまではいわないにせよ、都市一つあるいは時代一つ分ほどはありそうな石の重みを感じながら、ヴァージニアはその石の重みに引かれて川底に沈んでいった。そうして水中で窒息していきながら、その身体は水中の世界を、生きている状態の魚や水草のように、ふわふわと漂いつづけるのだった。

     *

 ――最期の瞬間にヴァージニアは、自殺は慰めだと解放だと感じただろうか? それとも、別の展開、別の世界の解釈を見出していただろうか? あるいは、そもそも時間的な最後の判断は、その人物の最終的決断だと考えていいのだろうか……?
 ヴァージニアは、在りし日、まだ家のなかでテーブルに向って最後の手紙を書こうとしていたとき、それとはべつに、自分が最期の瞬間、死ぬ瞬間に考えるべき、あるいは考えるであろうことを予めいくつか練りあげていた。
 死ぬ瞬間のヴァージニアが思い出したのは、確かにそれらの思考のうちのひとつだった。
 ――でも、次に私が死ぬ瞬間にもまた同じものを思い出すかはわからない……。
 こうして、ヴァージニアの最後の思考は完全に途切れたのである。

     *

 数分後、鍾会がヴァージニアに渡した魔法の石だけが、先に彼女のポケットから抜け出して水中から浮かびあがった。
 また、その石は小さな泡をひとつ伴っていて、その泡から一匹の小さなメダカのような魚が誕生した。
 鍾会は石を回収して、それから魚を掬い上げた。
 指で吊り下げられた魚は、風のなかでぴちぴちとその全身を踊らせていた。
 鍾会はしばらくそれを黙って見つめていたが、やがてそれを生きたまま口のなかにに落とすと、錠剤のように飲み込んだ。

 魚は、鍾会の身体のなかで、川の中にいるように泳ぎ始めたのであるが、これが鍾会が手に入れたいと考えたヴァージニアの小説の才能の本体だったのである。

 その才能は確かに随分縮まっていたが、それでもまだ数ページ分の物語を生み出すだけの生命力は残っていた。

■衛瓘

 ウルフの小説の才能の残り滓の小魚と、鍾会本人の小説の才能とのマリアージュによる小品。

     *

 西晋の衛瓘が、政争に敗れて殺される一年ほど前のことである。
 衛瓘の屋敷では、不思議な出来事が頻出するようになっていた。
 衛瓘は、特に誰にもいわなかったが、内心ではこんなふうに考えていた。
 ――怪奇現象が我が家でこう続くということは、我々の滅びの時も近づいているということに違いない。
 ――鍋や筆はたまに部屋の中を虫や鳥のように飛び回っているし、夜中に目が覚めれば枕元にいつの間にか死神になった鍾会が現れて、わしの枕を窓の外に放り投げては眠りを妨げてくれるせいで疲れがいつまで立っても取れることがない。
 ――漢の終わりには男が女になりまた女が男に変わり天命の変化を告げたが、我が息子の一人もそうなった。殺して証拠も残らないようにしたから、この先この秘密は誰にも知られることはないだろうが……。

 ある日、また衛瓘邸で怪異な出来事が起きた。
 床に落ちた米粒が皆、きれいな色の小さな巻貝に変わってしまったのである。
 衛瓘は出来る限り、自分の家の怪異が外に漏れないよう苦心していたが、この件については不可能に近かった。巻き貝は最初の米粒よりも増え続け、家中を這い回り、外にも出ていってしまったからである。
 衛瓘は、後に人にこの事件について尋ねられたとき、実は財産を増やそうと計画を練り、貝の養殖を始めたが増えすぎて失敗した……と苦笑してみせつつ、はぐらかした。
 衛瓘は常日頃、誰にとっても本心が掴みづらい人物だったから、その説明で納得されたわけではないにしろ、それ以上追及を受けることはなかった。

 一年後、彼の屋敷は襲撃を受けた。衛瓘が死を観念したところ、ふいに机の上に置いてあった小箱が自動的にかかたとた動いて開いた。衛瓘が注意して見ていると、やがて中から一匹の巻き貝が現れた。
 宇宙に浮かんだ巻き貝は、衛瓘に向って話しかけた。
「あなたは一年前、食べられてしまいそうだった私を哀れんで助け、その箱にかくまってくれました。その恩を今日返そうと思います」
「それはありがたい話だが。だが私になにをしてくれるのかね?」
「あなたは、今日殺されることが決まっています。ですが、同じ衛という姓の男を身代わりにすればあなたは死ななくて済みます」
「なるほど」
「私がその人物は後で適当に見繕っておきましょう。死んだほうがましな人間などいくらでもみつかりますし、幸いあなたの姓は大して珍しいものでもないですし。あなたは、まあそれよりは、まずここから逃げることです」

「外は兵で満ちている。また昔わしが殺した鍾会が、木の枝に座って飲み食いして、にやにや笑いながらこちらを見ているのが、あそこの窓から見えるだろう」
「大丈夫です。あの蘊神とは話を付けておきましたから、今回あなたをたすけることの邪魔はしないでしょう。なぜなら、あなたが死んでしまったら、これ以上あなたが苦しんだり途方にくれたりするところを見ることができないから、と言っていましたからね。なので、まず大丈夫です」
「鍾会の性格が悪くて、今回わしは救われたな。それならまあ良いが。で、お前はわしをどう助けてくれるというのだ?」
「この薬を飲んでください」
「説明も聞きたいが、間に合いそうもないか。まあ、ここで捕らえられて死を選ぶよりはましだろう。薬をくれ」
「この飲み薬です」
 巻き貝は、小瓶を忽然と机の上に出現させると、衛瓘はそれを躊躇することなく飲み干した。

     *

 衛瓘は薬を飲むと、魚になった。すぐに池に飛び込み、池の底の隠し水路を抜けると、そこは茫漠とした大海だった。
 彼の身体は魚に変わったが上半身は人間のままだったため、泳ぎ回りながらいつかは人間に戻りたいと考えていた……。

 これが、鍾会がウルフの才能の残滓を使って書き上げた小品である。

■エピローグ1

 ある日、鍾会はクレタ島に来て、海辺で地中海に向けて釣り糸を垂らしていた。
 遠くに白い灯台が見えた。
 そしてイギリスでの出来事を思い出していたところで、釣り糸に緊張が走った。
 かなり重たい手応えだった。
 数分間の格闘の末、彼はかかった獲物を釣り上げた。
 それは衛瓘だった。
「久しぶりだな鍾士季、こんなところで再会するとはな」
「それはこっちの台詞だ。それより、お前、人魚になったはずだがいつの間にか人間に戻っていたのか。まあ、あれから千年以上もたったのだ、それくらいできなければ間抜けすぎるか?」
「相変わらずのようだな」
 地上に上がった衛瓘は、長いあいだ海で過ごしたせいかかなり見た目は死んだ時よりも若返っていたが、身につけている衣装は、古くはないにしろ昔の様式のものだったので、今となっては珍しい、というよりは既に世界のどこででも見ることのできないものとなっていた。
 同時代に適応し続けている鍾会は、その衣装に、懐かしさよりも奇妙さを先に感じた。
「何しに地中海へ?」
 鍾会が尋ねると、衛瓘は頭上の冠の傾きを手で調整しながら答えた。
「それは、たまたま通りがかっただけだ。お前を見つけたからなんとなく立ち寄ってみただけのこと」
「なるほどな。そういえばこのあいだ久しぶりにお前のことを思い出したのは、この邂逅の予兆だったのか」
 バケツの中では、鍾会が釣り上げた魚が数匹泳ぎ回っていて、その下には夕方のよく伸びる影とそれといくつかの巻貝が散らばっていた。
「じゃあ、別に用はないからもう戻る」
「なんだ、海は気に入ったのか」
「さあ……?」
「相変わらずだな」
 衛瓘は再び海に沈んで行き、見えなくなった。

■エピローグ2

 しばらくして鍾会は、再びロンドンに舞い戻った。
 そして、とある建物の前に立つと、特殊能力のない凡人でも自分の姿を見ることができるようにする術をかけ、その建物に入っている出版社の事務所を訪問した。
「……あのヴァージニア・ウルフが死の直前絶賛したのが私のこの作品です。ほら、ここに彼女の直筆サイン入りの推薦文もある……」
 鍾会は偽造したウルフの手紙を見せて、ぜひ自分の作品を出版するようもちかけた。
 応対した編集者は迷惑そうな表情を隠そうともせずにその手紙をぞんざいに受け取ると、「後で返事をしますよ」とだけ言って、机の引き出しにねじこんだ。
 数ヶ月後、鍾会が再三の督促をした結果、出版社から一通の返信が届いた。
「……正直なところ、あなたの作品のどこに良さがあるのか私にはわかりません。それでも無理にひとつ評価できる点をあげるとするなら、それは英語の文章としてとりたてて間違っていないという点でしょうか? とはいえ、それだけです。また、少々気になる点があって探偵に調べさせたところ、あなたが提出したヴァージニア・ウルフのものという手紙は、彼女の死後発売された便箋に書かれており、更にくわしく調べた結果……」
 そこまで目を通したところで、鍾会は読むのをやめて手紙をソファの上に投げつけると、こう決意した。
「あの編集者は殺そう。見る目のない編集者が減ることは世の為にもなる。人の役に立ちたいわけではないが、たまには利害が一致することもあるのはやむを得ないな……」
 こうして次の日、ロンドンのビッグ・ベンの鐘の音が聞こえる程度の場所にある完全な密室で一人の編集者が変死を遂げる事件が起き、イギリスの新聞誌面の片隅で、好事家の興味をかきたてた。

(完)

(2016年10月15日)

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