2017.11.19
11329文字 / 読了時間:14.2分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

ティエポロのゼノビア

🍹21世紀、タヒチで

 バカンスで、海と空がよく見えるリゾートホテルの一室に滞在中の鍾会は、その朝ひどい疲労感と眠気につきまとわれ、悩まされつづけていた。
 まるで、眠っていると思っていたあいだ実はずっと海を泳ぎ続けていたか、塹壕を掘り続けていたかのような疲労困憊振りである。
 鍾会はこの現象には何か原因となる出来事があったのではないかと思い出そうと、ベッドのなかに座り、紅茶を飲みながら真剣に検討したが、結局のところよくわからなかった。
 そこで彼は、サイドテーブル上の白い皿に載せられたクロワッサンに手を伸ばしながら考えた。
 ――気が付かないうちに疲労困憊しているのは、大抵の場合、何か自分以外の存在に身体を乗っ取られているか、あるいは操られているのが原因だ。自分の知らないところで自分の身体はどんなことをさせられたのやら? 考えると不愉快だが、そのあいだの記憶が自分のなかに残っていないなら思いだしようもないからどうしようもない。まあ、これが続くなら睡眠中のはずのわしの目撃者を見つけて、わしがなにをしていたか、地道に聞き出すしかない。まあ、今のところはいちいち気にするのも面倒だが……。
 そこまで思案が辿り着いたところで、区切りをつけるようにクロワッサンを一口齧ると再び皿に戻そうとしたが、しかしかなりぼんやりしていたために、クロワッサンを誤ってオレンジジュースの方に沈めてしまった。
 鍾会は、慌てて引き揚げたオレンジジュースが滴るクロワッサンを見つめながら考えた。
 ――既視感があるな、これは……。
 既視感、既視感……と、しばらく彼は頭の中で繰り返していたが、いつまで経ってもこの方法ではそれが何なのか答えを見出すことはできなかった。
 結局のところ、これ以上考えても徒労だと鍾会は判断し、再び持っていたクロワッサンを口に運んだ。オレンジジュースが染み込んだクロワッサンの味が口の中に広がっていくのが感じられた。
 その甘さと酸味のあるクロワッサンの味は彼の感覚にとって通常馴染みのないものでかなり新鮮な存在だった。そのため、眠気や疲労感は、この時点でかなり吹き飛んでいた。
 そして、それと同時に、百年ほど前に同じような出来事の起こったときの記憶も取り戻していったのである。
 ――前にオレンジジュース味のクロワッサンを朝食にとった日は、そうだ、ちょうど空襲でパリがやたら燃えていた日だったな……。いや、違う。あれは第二次世界大戦ではなく、その前の第一次世界大戦のときのことだった、そういえば……。名前が似ているから紛らわしいがまあいい、西部戦線が異常なかったころの平穏な朝のことだった。その前夜、散歩中に偶然サンジェルマン伯爵に会って、久しぶりにサンジェルマンの奢りで、高級フランス料理を堪能しながら色々な話をしたものだった……。
 第二次世界大戦と第一次世界大戦を取り違えたりと、はじめはところどころ混乱しながらも、鍾会の回想は徐々に、牧場で走り出したくなった羊のように動き出していくのだった。

    🔸

 頭のなかで回想を羊のように走らせている鍾会の背後には、日の光を強く反射している白い壁が高い天井まで広がっていた。
 頭からかなり離れた上の辺りには、額縁におさめられたゴーギャンの絵の複製――縮小された〈豚と馬のいる風景〉である――が一枚飾られていて、こちらも壁紙と同様に窓から差し込む光を映していた。
 ところで、その額縁の中の小さなゴーギャンの絵の下には、もう一枚別の絵――当然こちらも複製である――も重ねられていた。
 そちらはポール・ドラローシュの描いた〈ギーズ公の暗殺〉であり、リーマン・ショック以前までは当時のオーナーの趣味によってホテル内に飾られる絵画はすべて歴史画になっていたことの名残である。
 この重苦しい歴史画の上にゴーギャンの絵が被せられているために、しばしば息苦しくなった絵の中の暗殺一味あるいはギーズ公本人が、逃れようとゴーギャンの絵を裏側からつつくことがあり、昨夜もつつかれたゴーギャンの絵のなかの動物たちやあるいは暗殺者たち、ギーズ公の幻が何度か眠っている鍾会の上に何度か繰り返しふりかかった。
 おそらく鍾会のこの朝の疲弊は真夜中のその騒動によるものだったが、当人は結局のところ気付くことはなかった。
 この部屋にはもう一つ額縁が飾られているが、そちらも現在はゴーギャンの〈タヒチの女〉に変更されている。〈タヒチの女〉の場所には以前は同じくポール・ドラローシュの描いた〈レディー・ジェーン・グレイの処刑〉が選ばれていたが、こちらの方は取り去られていて額縁の中には残っていなかったので、別段何事も起こることはなかった。
 その〈タヒチの女〉はちょうど鍾会の正面にあった。彼は初めにこの部屋に入ったとき、この絵のことを趣味が悪いと考えたが、既に部屋の一部として、木目の模様と同じくらいには意識にのぼらなくなっていた。
 鍾会は窓の外に目を向けた。
 そこには、澄み渡った空が、海のような広がりをみせている。
 ――ああ、そうだ。戦争や新型兵器に気を取られて、結局あの時のサンジェルマンの話のことはあれからずっと忘れたままだった。どちらも不老不死だからいいようなものの、通常の人間だったら死ぬまで思い出さないまま忘れ去っていたことになっていただろうな。今度会った時にはもう少し詳しく聞いてみよう……。

🍹20世紀、パリのレストランで

「最近僕は新しい人造人間の作り方を思いついたんだ」
 その日、鍾会とは古い友人であるサンジェルマン伯爵は、いつもより興奮した口振りで鍾会に語りはじめた。
「そうか。蘊神(死を司る疫病神)としては殺す手間が増えるだけでなんのありがたみもない気はするが」
「新しい殺し方、死に方を発見することができるかもしれないじゃないか。だいたい君、新しい世界への好奇心をなくしたら、それはもう君自体が既に生きたまま屍になっているも同然だよ。それでいいのかい? でも僕は、僕の中の人間の可能性への愛は誰にもとめられないと常々思っているんだ」
「まあ、そうだな。毒ガスなんかはわしの仕事に使えるかもしれないから、手に入れたい気はするが」

    🔸

 またサンジェルマンは、ドイツ軍の侵攻に晒されているヨーロッパ各地で貴重な芸術品の保護という名目で、いくつかの美術品をこっそりと持ち主に気づかれないように運び出し私物化する活動を続けていると、鍾会に語った。
「なら、わしも貴重な芸術品の保護活動とやらに協力してやるから、いくつか預かってやってもいいぞ?」
「うん、君ならきっとそう言ってくれると思っていたよ。持つべきものは信頼しあえる友だね」
「フェルメールがいいな。フェルメールのはないか?」
「それはまだあいにく保護できていないんだ。というか今回は、歴史画を優先して回収しているからね」
「何故?」
「最初に話しただろう、ほら、新しい人造人間の作り方を思いついたということを」
「関係あるのか?」
「うん、かなり大いに。今持っているのはこの一枚だけだけど、とりあえず渡しておくよ。ついさっき持ち出したばかりなんだ……」

    🔸

 鍾会が渡されたのは一枚の油絵だった。
「これは?」
「ヴェネツィアの画家ティエポロのこれまで知られていない作品だよ」
「贋作じゃないのか?」
「それはあり得ない。なぜならこれは昔僕が一時所有していたものだからね。まだティエポロ本人が生きていた頃に」
「なるほど」
「僕はヴェネツィアのカーニバルが好きで、なるべく参加するようにしていることは君もよく知っていることだと思うけれど、その時たまたま出会って意気投合した彼に頼んで描いてもらった絵があった。それがこの絵なんだよ」
「じゃあ、なんで手放したんだ?」
「それは、引っ越しのときに荷物が多かったからね。僕は引っ越しが好きだし、毎回荷物を全部移動させていたらせっかく移住しても家の中の景色はちっとも変わらないことになる。それじゃ何のために引っ越したかわからない。だから僕は出来る限り荷物は置き去りにする主義を続けているわけだ」
「いちいち、元自分の所有物を探し回るくらいなら、どこかに隠しておくとかすればいいものを」
「僕はそういう過保護なのか虐待なのかわからない境遇に芸術品を置くのは性に合わないんだ。もっとのびのびといろいろな出会いや経験、あるいは冒険や思索を続けてほしいんだよ。そうすると再会を果たしたとき、芸術品はさらに芸術家になることも不可能ではなくなっているんだ」
「ああ、そうか」

    🔸

 おおよそこういった経緯で鍾会が手に入れたのが、パルミラの女王ゼノビアを題材とした油絵だった。
 ティエポロは他にもゼノビアを題材とした作品があり、現在マドリードに所蔵されていてよく知られている作品では彼女が捕らえられ連行される場面が描かれていて、その作品は鍾会も見たことがあった。
 いま目の前にある絵の中では、ゼノビアは机に向かって何か書き物をしていた。
「タイトルは?」
「図書館のゼノビア」
「ゼノビアって誰だ?」
「パルミラの女王だよ」
「ああ、思い出した。もちろん名前程度なら知っている」
 負けず嫌いで無知だと思われるのが嫌いな鍾会は、後で百科事典で調べようなどと考えながら答えた。
「そうか、それはよかった。僕と彼女は、実は生前面識もあって、生まれた時は違っても死ぬときは同じ時にと誓いあった義姉妹なんだ」
鍾会は、サンジェルマンはあいかわらず胡散臭いやつだと思い、また有名な三国志演義の逸話を思い出しながら、
「それなら三人いたほうが、説得力出るんじゃないか?」
と、劉備らの桃園結義の情景を念頭に置きつつ、適当な提案すると、
「それも、もっともかもしれない。じゃあ、君もその一員だったことにしよう。僕は関羽の役がいいな。彼とは中国にいたときには結構親しかったしね。君は劉備、それとも張飛?」
「……じゃあ劉備で」
「そういうと思っていたよ。君はむかしから劉備にあこがれていたよね」
 ――そんなことはない。
 と、鍾会は、内心サンジェルマンの勘違いにうんざりして喉元まで出かかったが、ちょうどデザートのピーチ・メルバが出てきたところだったので、くだらないことに関わり合うのは無駄だと思い直し、反論を思い止まった。
「どうでもいいが」
「じゃあゼノビアが張飛ということになるね。考えてみると彼女と張飛には意外と共通点がある気がするよ……」

    🔸

 それはそうと、この鍾会の友人であり数千年生き続けていると自称しているサンジェルマン伯爵という人物は――中国滞在中には趙公明と名乗っていることが多かった――、モラルに欠けている所がおおくまたかなりいい加減だったが、とはいえ錬金術師としての知識や技術は高かった。
 レストランのざわめきの奥から、耳ざとく上空を過る飛行機の音を聴きつけた彼は、鍾会にそのことを指摘した。
「ああ、飛行機がいまパリの上空を飛んでいるようだ。あのエンジンの響きはフランス軍のものかな」
「ドイツ軍とどう違うんだ?」
「フランス軍の飛行機の音は、ワーグナーのワルキューレの騎行の音楽にどういうわけか似ているんだ。それにはじめに気づいたのは、僕の友人の同僚だというフランスの軍人の誰からしい」
「要するに誰が言ったのかお前は知らないということだな」
「真実に気づくことができるなら、僕は誰が言ったかなんて気にしないよ。大体僕の人生は知人の名前だけでも、積み上げればバベルの塔何本分になるかわからないくらいには膨大だからね。むしろそれは積極的に片付けてしまいたいような情報でもある」
「それはご苦労なことだ」
「それにしても僕が感慨深く思うのは、我々とは直接関係のない人間たちが彼ら自身が作った機械を空に飛ばせるのを見るのは、すごく久しぶりだということなんだ。何千年ぶりだろうか?」
「あいにく、わしは自分の頭の回転の速さを優先したいから、古い記憶は適宜消去するようにしているんだ。というわけで、そこまで昔のことは覚えていない。整理された、あるいはかいつまんだ年代記的な知識で代替すれば充分じゃないか? それが知者というものだ。ま、お前が自分の頭の容量を使って雑多な情報も記憶にとどめておく分には勝手にすればいいが」
「そうだね。で、ドイツ軍の飛行機のエンジン音は何に似ているのか。もしそれがフランスの音楽に似ていると考えるなら、それはあまりに単純すぎる。もっと別のものに似ているだろう。我々はそう簡単に双子の関係にならないこと、鏡像の関係にならないことは理解しているだろう。で、僕はそれをそのうち探し当てたいと思っている。というわけで、いろいろ最近忙しいんだよ」
「ああそうか」
「ただ、あれはドイツ軍の飛行機の音に似たものは、一万年前くらいにどこかで既に見たことがあるような気がするんだよなあ。ピラミッドの上空あたりで。いや、マンモスの住む草原の上あたりだったかなあ……」
「わりとどうでもいい」
「そうか。でも僕がいまわくわくしているんだよ。僕は、もっと多くのものが空を飛ぶことができるようになるといいと考えているんだ。機械だけじゃなく、人間や生物に限ったことでもなく、そうたとえば絵とかもね。だから、いまちょうどヨーロッパ人たちは戦争に熱中しているだろう。そこで彼らが、兵器を飛ばすついでに、美術品や書物、花といったものも空を飛ばしてくれないかと密かに願っているんだ」
「そんなしょうもない曲芸は、政治家や軍人たちは永遠にやる気は起きなそうだが。自分でやればいいのでは?」
「いまは錬金術仕様の額縁の改良で手一杯だから仕方ない。ただ最終的にはその額縁はもちろん空を飛ぶ機能、宇宙へ飛び出す機能、時間を旅する機能、死者の世界と行き来する機能、別の宇宙へ移動する機能、といったものも備えるようにする予定なんだ」
「多分、そんな余計な機能を追加しようとするからお前の錬金術はいつまで経っても完成しないんだ」
「僕は本質的に理想主義者なんだ。理想を追い求めているときが、むしろ本当は僕の最も求めている人生なのかもしれない……」
 サンジェルマンはそれからも、鍾会の反応は気にせず自分の話したいことを語り続けたが、鍾会はこれ以上のことは思い出せなかった。

    🔸

 サンジェルマンと別れた後、鍾会は自分の泊まっているホテルの部屋に戻った。
 それから、持ち帰ったティエポロがサンジェルマンのために描いたという絵を壁にゆっくりと立てかけた。

🍹時代不明

 ティエポロが描いた古代の図書館の風景は、サンジェルマンの思い出と記憶に基づいた現実の過去のとある図書館の風景を可能な限り再現したものである。
 確かにサンジェルマンはゼノビアと面識があり、その中で共通の思い出としてこの図書館のことを話したこともあった。
 サンジェルマンの記憶の中で、二人はヴェネツィアによく似た水の都のゴンドラに乗り、会話を交わしていた。
「僕はその頃、図書館の庭師だったんだ。よく覚えているよ」
「じゃあ私は?」
「君は、そうだな、図書館の備品の箒の一本だった。朝出勤して僕は最初に庭を掃き掃除することにしていた。だからその頃、僕と君は毎朝出会っていて一緒に仕事をしていたことになる」
 ゼノビアは自分の前世が箒であったことに憤慨して言った。
「私が箒ってひどくない? じつは館長だったって方がいいわ」
「僕の最大の特技は、記憶の容量と記憶の期限の解除なんだけれど、それについては僕より優れた者はいないから、僕しか知らない歴史についてはいくらでも改変できる。だから君の頼みということなら、そういうことにしてもいいけどね。ただ、館長は既に義弟が確保したから、別の役職にしてくれるといいな」
「じゃあ、図書館の総長とかはどう?」
「いいよ、その役職ならまだ誰もついていないから。あとは総司令とかもキャンセルが出たから空きがあるけどね」
「総司令……。ということは図書館には軍隊があるってこと?」
「軍人希望者も結構いたからね。将軍はいつの時代も人気の肩書だから」
「なるほど? じゃあやっぱり総司令の方にして」
「分かった。じゃあ一月後くらいには君の図書館での役職変更を反映させられると思う。だからもう少し待っていてくれるかな」
 ゼノビアはゴンドラの中で座ったまま、空を見上げた。日没後間もない海の底のような色の青ざめた空にほっそりとした白い三日月が輝いているのが見えた。
「一月後……つまりまた三日月がどこかの空に顔を出した時ってことね。ピラミッドの上かどこかの火山、どこかの塔の上かはわからないしどこでも同じことだろうけれど。まあいいけど。でも、そんなに時間かかるものなの?」
「あらゆるものは有限で、真実にもまた寿命のような限界がある。だから古い世界は実際は忘れ去られるのではないし、またあらゆる世界や時代の哲学者たちが探求してやまない真理も、本当のところは隠されているのではない、それらは本質的にみな消尽したもの、消尽しているもの、消尽するだろうものなのだ――というわけで、僕が長年研究して得意な技術は、そうだな、どう説明すればいいんだろう……」
 ゼノビアは呆れたように、
「長年研究して得意なのに、まともに説明もできないの?」
「別件の趣味で、僕はできる限り説明を回避したいんだ」
「なぜ?」
「それも説明したくはないな。でも少しだけ断片的に提示するとしたら――それなら全然気にならないんだ――説明は消尽に似ているんだよ」
「じゃあ、べつに説明してくれなくていいわ。とりあえず私は一ヶ月後には元図書館総司令ということになる」
「もし余裕があったら、総司令としての戦績も考えておいてほしい。それも反映させるから」
「わかった。じゃあ今晩にでも考えておく……」
 ポセイドン神殿の下の水路に差し掛かった。ゼノビアは用があるからといってそこでゴンドラを降りていった。
 ポセイドン神殿があるということから、おそらくアトランティスでの出来事だったかもしれない。

🍹20世紀、パリのとあるホテルで

 鍾会は壁に立てかけておいたティエポロの絵を眺めながら考えた。
 ――背景部分は、たしかアレクサンドリアだかの図書館の風景だとサンジェルマンは言っていた気がするな。前景にいるこの女が邪魔で全体がよく見えないのは腹立たしいが。
 それからまた鍾会は、このサンジェルマンが描かせた絵の中のこの図書館は、かつて自分も見たことがあった可能性があることに気づいた。
 ――多分あの図書館は、かなり古い図書館だったはずだ。まだアトランティス人の書いた書物が大量に、つまり実用書や恋愛物語等といった軽佻浮薄なものまで大量にまだ残っていた頃のことだった……。
 鍾会は確かに古い記憶は削除するように心がけていたが、それでもある程度の遺留品のような痕跡は大抵の場合残りつづけていた。
 ――紛らわしいタイトルに騙されて読んだ実際は低俗限りない小説のあらすじなんかが無駄に記憶のなかにこびりついているのが最悪だ。主人公の特に取り柄もない若い女は実は王族の隠し子で継母と密通した生き別れの婚約者の裏切りで隣国の王子に拐われて記憶喪失になって怪物が守る塔に閉じ込められたところまでが、どうにも記憶から消えなくなっていて困る……。
 鍾会は、かつて物語を読んで思い描いた黄昏の砂漠の塔の荒涼とした光景を思い出した。登場人物たちも筋も彼にとっては趣味に合わなかったが、描かれる情景描写だけは好感を抱くものだった。だからこそ、不満を持ちながらもずるずると読み進めていたのである。
 ――記憶には、消そうとして消せる記憶と、極稀にしかないが消そうとしても消すことができない記憶がある。だが、記憶が消去できないことと、重要性、関心の度合い、あるいは実在性に関連が見いだせるわけでもない。それはあくまで、別の原理に従っているものだ。それが何かは今のところまだよくはわからんけどな……。
 それから再び、図書館とサンジェルマンについての記憶を探る作業に戻った。
 ――記憶の中では、サンジェルマンは庭の噴水だったような気がするな? いまいち曖昧だが。あと、庭園には放し飼いにされた馬や豚がうろうろしていたせいで、散歩中にたまにそいつらに轢かれそうになった記憶もある気がする……。
 しかしこの時思い出せたのはせいぜいその程度だった。
 これ以上、追及する気も起きなかったので、その日はそのまま眠ってしまった。

    🔸

 深夜。
 サンジェルマンの錬金術が施された額縁の効果によって、絵の中のゼノビアあるいは再構成された限りなくゼノビアに似た魂は、その夜、密かに絵の中から抜け出し、生きている人間にしか見えないゼノビアの亡霊としてこの世の舞台に再び一歩を踏み出した。
 ――このベッドで熟睡しているなんか色々不吉な感じの男、とりあえず口封じに殺したほうがいいかしら?
 ゼノビアは首を傾げて考え込んだが、結論は出なかった。
 ――まあ、サンジェルマンの友人なら大人しく殺されてくれるとも限らないし、私に気づかないうちに、さっさと出ていったほうがいいかもしれない……。
 そう決断すると、ゼノビアは部屋の中からいくつかめぼしいものを荷物にまとめて、パリの街に出ていった。

    🔸

 翌朝、鍾会はいつもと同じように寝ぼけたままぼんやりとクロワッサンをかじっていたが、壁に立てかけておいた絵のなかからゼノビアが消えていることに気づくと愕然とした。
 ――朝から最悪だな、逃げられているじゃないか。さて、どうごまかすか?
 オレンジジュースのなかに手が滑ってクロワッサンが墜落したのはこのときのことである。
 それからふと嫌な予感がして部屋の中を巡回して確認していったところ、財布のなかの現金、腕時計をはじめとした高級品のたぐいがすべて消え失せていた。
 鍾会は怒りに半ば肩を震わせながら罵った。
「ふざけやがって。あのくそ女、人の金目のものすべて持ち去りやがった。だからわしは借りるなら、風景画や静物画のほうが良かったんだ……」
 枕元の近くに隠してあった拳銃も消えていることに気づきさらに怒りは増したが、
「これじゃ安全に散歩をすることもホテル代を払うこともできない。あの女が捕まらなかったらすべてサンジェルマンに責任を取らせよう」
 と、ある程度冷静さを取り戻すと、ゼノビアとサンジェルマンを探す参段をはじめた。

🍹パリのとあるアパート

 一週間後、鍾会はようやく、居場所を突き止めたサンジェルマンと再会を果たした。
「貴様は、一週間もどこへ行っていたんだ? ホテル代の立替をしてもらおうと思って探していたが、お前がほっつき歩いているせいで散々な目にあった。あの女が人の金目のものをすべて持ち出した恨みは忘れんし、おかけで一文なしの東洋人詐欺師認定をされたわしがどんな差別的な扱いを受けたか、この恨みは絶対に忘れん……」
 通された部屋で椅子に座り、出されたプティ・フールを次々とつまみながら、鍾会がこれまでの不幸な経緯を語るとサンジェルマンは、笑いながら答えた。
「それは悪かった。まさか君が有り金をすべてとられてホテルを追い出されたりするとは思わなくてね」
「やかましい」
「じつは散歩中、偶然友人のシャルリュスに会ったんだ。ベートーヴェンについて語り合っていたら時間が立つのも忘れるほどだったよ。時間、時の流れ、その本性はどのように描写すればいいのだろう……」
 鍾会はサンジェルマンの独り言のような疑問には答えずに、問い返した。
「はあ? それで一週間かかったとでも?」
「いや、それは昨日の出来事に過ぎない。あとは、この間話したじゃないか、僕は芸術品の保護活動をしているってね。それで僕は多忙を極めていたんだ」
「ものは言い様だな。戦争のどさくさに紛れて盗みをはたらいているだけだろうが。まあ、わしにも横流しする限りはどうでもいいが」
「優れた芸術品は、その最上の理解者を友人としまた恋人、家族とするべきだろう? 彼らにも魂があるのだからね。卑俗な環境から僕は救い出してあげているだけのことだよ。それに、芸術品は人間と同じで優れた友が傍らにいれば、より一層内面的にも成長するものだ。たとえばあのダ・ヴィンチが描いた〈モナリザ〉も、もしもっと僕と長い時を過ごしていたら、美しさや魅力ももっと高まっただろうにとは思う。人と同じように絵も加齢する。どう変わっていくかはその環境や経験、思考などに影響を受ける……」
「ああ、ならあのティエポロの絵はよほど邪悪な環境に置かれていたんだろうな。あの絵の女のたちの悪さときたら……」
「そうか。無事に彼女の魂は再生されたようでよかった」
「あの女が、わしの手持ちの金その他を持ち去ったんだけどな」
「まあ、彼女もただひとり二十世紀に蘇ったなら、何も手持ちがないのは不安だと思うよ」
「じゃあ、お前が金なりなんなり渡すために用意しておけばよかったじゃないか」
「うん、たしかにそのほうが良かったかもしれない。ありがとう、君の助言にはいつも感謝しているよ」
「勝手に助言扱いするな」
「細かいことは忘れよう。僕と君の仲じゃないか。それよりあの額縁の性能もだいぶ良くなったみたいで何よりだ。絵はいま持っているかい?」
 鍾会は言い返す気力もわかなかったので、無言のまま布で包んだ絵を渡した。
「おや。ゼノビアが消え去っている……?」
「だから逃げ出したと言っただろうが」
「うーん……」
 しばらくサンジェルマンは絵を見ながら腕を組んで考え込んだ。
「絵のなかの人物部分まで消えてしまうのは想定外だったなあ。また、修正しないといけないかもしれない」
「あんな性悪女は消えてよかったかもしれないじゃないか。むしろ、風景画として芸術性は上がっているといってもいいかもしれない」
「うーん。まあでも消え去ったゼノビアにはこれからも自由に行動してもらおうと思う。そのための実験だったとも言えるわけだしね」
「わしの金品さえ回収できればな」
「分かった。じゃあ代わりに僕の手持ちの現金を渡すよ」
「ホテル代には全然足りないが?」
「そんなものはべつに踏み倒せばいいじゃないか。友人のシャルリュスという人物は、金持ちの貴族でね。しばらくパリを離れるらしいから、そのあいだ彼のアパートを貸してもらうことにしたんだ。それがここだよ。というわけで部屋はたくさんあるから君もしばらくここに住み着くといい」
「まあ、ボロ家ではないようだし、それはそれで構わんが」
「うん、好きな部屋を使うといいよ」
「それにしても現金はこれだけか。お前はいつも手持ちの現金が少ないな」
 鍾会はサンジェルマンから渡された財布の中身を数えながらぶつぶつと文句をいった。
「仕方ないから、この家の金目のものを少しもらっていくとするか?」
「ああ、それがいいと思うよ。家主については心配ない。彼は大貴族だからすごく寛大なんだ……」

🍹再び、21世紀のタヒチ

 タヒチの太陽が、現代の鍾会の持つカップのなかの紅茶の表面に差し掛かり、彼はその反射の眩しさによって回想の世界から舞い戻った。
「……そういえば、消え去ったゼノビアはどうでもいいが、あの絵はどうなったんだろうな」
 そこで鍾会は携帯電話を取り出すと、サンジェルマンに電話をかけた。
 サンジェルマンは留守だった。
 そこで鍾会は、少し考えてからサンジェルマンの留守電に、あのゼノビアが逃亡したティエポロの絵はどうなったか顛末を知りたいから教えるように、と残した。

                                 fin. 🍹

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