2017.11.19
3778文字 / 読了時間:4.7分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

四本論の行方

 魏の夏侯玄が処刑されて間もない時期、まだ鍾会が二十代の頃の出来事である。

  🔸

 ある日鍾会は、夜の洛陽の街を散歩していた。
 彼の頭上では、宝石のような星や星座が瞬いている。また、時折風が、幼さの痕跡がまだどこかほくろの大きさ程度には微かに残る頬を撫でるように吹きすぎて行く。概して爽やかで心地よい夜だった。
 風に吹かれながら、彼は様々な思案を巡らせる。
 ――出世はしたいが、仕事のことばかり考えるのは憂鬱だなあ……。油断をすると、このまま自分の心も俗塵にまみれて凡人として終わってしまうかもしれない。いくら才能に溢れていたとしても、自分一人だけがその危険を免れていると考えるのはいささか楽観的すぎるあるいは浅墓ではないだろうか?
 彼の手の中には、つい最近書き上げられた一巻の書物が握られていた。その書物の中には、これまでの彼の思考ないしは研究の整理された世界が包含されている。
 それはいささか、整えられすぎているように、彼自身にも思われるものではあったが、とはいえそれはならばどう手を加えればいいのか、結局のところ皆目見当がつかないのだった。
 だからこそ、彼は助言を求めていた。
 あるいは、追い求めている自分自身が本来書くべき書物の姿を見ることの手助けを、内心ではかなり焦りを覚えながら渇望していたのかもしれなかった。
 ――だが、嵆康はこれを受け取ってくれるだろうか? 
 鍾会の心は、先程から、旋風のなかの木葉のように逡巡しつづけている。
 気ままなそぞろ歩きの体で、その実、もうすでに数回は嵆康の家の一角を周っていた。
 ――嵆康が気持ちよく迎えてくれるならば彼を訪ねたいが、そうでないなら嫌だから家に帰りたい。だが、いっこうに予測がつかないから、周回を止めることができないというわけだ……。夏侯玄は、わしと直接面識はなくとも、死ぬ前に四本論を一度読みたいくらいの願いは持っているかと思ったのに、現実はそうではなかった。人の心は読みにくいというわけでもないが、それでもごく一部分については完全に闇に包まれているかのように全く把握することができない。おそらくこれが老子のいう無や玄であるだろうということはわかるが、問題はそれがわかったといって、今のこの周回を終わらせられるわけではないということだ……。
 鍾会は歩くのをやめて立ち止まった。
 いい加減疲れて足の裏が痛くなっていたためである。
 すぐ隣には嵆康の家の塀が連なり、その向こう側には家の壁が星明かりに薄っすらと浮かんでいるのが見える。
 ――訪ねるべきか、訪ねないべきか、それが問題だ。
 逡巡していると塀の奥から犬の吠え声が聞こえてきた。彼は自分の存在が気づかれたのではないかと怖れ、帰るべきか帰らないべきかについても検討をはじめるのだった。
 結局のところ、鍾会の悩みは夜が空けるまで尽きることはなかった。
 疲れ果てて、空に曙光が広がりはじめた頃、ようやく自宅に戻った。
 何の連絡もなく帰宅が朝になったということで、母親がまだ起きていて心配していることはわかっていたが、それでも説明する気力が起きないほど、この朝彼は疲労困憊していた。
 歩き疲れただけではなく、心労も大きかったのかもしれない。

  🔸

 ある日、鍾会は決断した。
 そしてある夏の昼下がり、車で嵆康の家の前に乗り付けると、車に乗って身を隠したまま、嵆康の家めがけて四本論を投げ込んだ。
 こうすれば訪ねて受け入れられるか拒絶されるか不明であるという不安な状況を回避することができると考えたからである。
 しかし、四本論は嵆康邸の敷地に入ることなく、塀の外の路上にぽとりと落ちた。枯れ枝のように見えた。
 近づきすぎて気づかれないよう離れた位置に車を停めていた上に、身体を鍛えているわけでもない生粋の貴公子である鍾会の投げ方では、目的の場所に正確に投げこむのは難しいことだった。
 目的を達成できなかった鍾会は車の中で深く恥じて反省した。
 ――巻物を正確に投げるにも才能や技術がいる、ということがわかった。ならば、その技術を習得し磨き上げるまでだ。
 こうして鍾会は、しばらくの間、自宅の庭で、黙々と暇をみつけては巻物を正確に遠投する鍛錬を繰り返した。
 努力の結果、一月もしないうちに制御は格段に良くなり、距離も二倍以上伸びた。
 これならば、車に隠れたままても塀の中へ投げ込むことができるに違いなかった。

  🔸

 一方、嵆康の側からすると、この一連の鍾会の行動は、不可解で不安を掻き立てるものであった。
 夜中に不審者が家の周りを連日徘徊している、また見慣れない高級車が何度も家に横付けに停車していて、誰も何者が乗っているか確認することはできなかったが、監視されているのは確実なようである……。
 ある日嵆康は、庭で鶏に餌をやりながら、様々な可能性を考えていた。
 ――自分が、色々現状に不満があるのは事実であるし反乱を思い描いたことはたしかにあったが、まるで自分の頭の中を覗き込まれているような、思考すべてが筒抜けになっているような不安がひどい……。最近、一ヶ月ほどは見かけなくなったが、終わったというのであればとりあえずはましだが……。
 足元に飼い犬が近寄って来ていることに気づいた。黄色い犬である。犬は尻尾を振っていたが、口には巻物をくわえていた。
 嵆康は、はじめまたこの犬は蔵書を勝手に持ち出したのかと眉をひそめたが、取り上げた巻物を開くと、それは間違った推測であることに気づいた。
 ――四本論、と書いてある。そして著者の名は鍾士季(鍾会)と記されていた。
 嵆康は鍾会を知らなかったわけではないが、しかし特に会ったことも話したこともなかったから、不審に思った。
 ――なぜこんなものが、我が家にあるのか? もしや、わしが盗んだということにして逮捕しようとか、そういう陰謀がはり巡らせられているのだろうか?
 嵆康は、夏侯玄が処刑された日のことを思い出した。
 その日、嵆康は夏侯玄が処刑された東市を見に行ったが、その雑踏の中で、険しい顔をした若い鍾会が立っていた……。
 ――わしはしばらく、あの男がその場にいることが不思議な気がして、ずっと眺めていた。その後、あの男はわしの視線に気づいて、一瞬怪訝な顔をすると、すぐに不機嫌そうに目をそらして、そのまま足早に立ち去っていった。あの時のわしの振る舞いが、何かと陰険だといわれるあの男をなにか刺激してしまったのだろうか?
 嵆康は、木下の石の上に腰をおろした。犬もそれに従って隣に座った。
 空を仰ぐと、紺碧の空に白雲がいくつか部屋に散乱した書物のように広がっているのが見える。
 久しぶりに登山に出かけようか、と唐突に嵆康は思い立った。
 難を避けるためでもあり、またざわつく心の状態を鎮めたいとも感じたからである。
 この登山のなかで、嵆康は隠者の孫登に出会い、その対話の中で、君は処世が下手だといった指摘を受けた。
 嵆康は、もっともだとは思ったがどう対処すればいいかはわからなかったし、また対処する必要があるかについてもあまり確信が持てなかった。
 帰路、小さな川の氾濫に遭遇した。
 嵆康は、勢い良く流れていく水を眺めていて逃げ遅れた。
 たまたま、木の枝に引っかかって助かったが、この件で彼は一層自らの処世能力、生存能力の欠乏を痛感し、ただしそれを改めるのではなくその傾向を吸収して自らの個性に変貌させたのだった。
 そのほうが、楽だったからである。

  🔸

 犬のよだれと嵆康家の庭の土にまみれてほんのりと汚れをおびた四本論は、遺失物として鍾会のもとに戻ってきた。
 公式的には、何者かが鍾会邸に侵入して盗みを働いたが価値の分からない無学の盗賊は書物をその辺に捨てていったのだろう、という見解になっていた。
 この時、嵆康が疑われなかったのは、鍾会が真実が露見することを怖れたからである。
 鍾会は自室で、戻ってきた四本論を机の上に置いてその姿を見つめていた。目的の人物に受け取られることなく戻ってきた品。それどころか、贈られたものだということさえ理解されなかった寂しい存在。
 窓から差し込む柔らかな光を受けて、ぼんやりとした巻物の影が机の上に、墨池のように拡がりをみせていた。
 ――果たしてこれをどうするべきか? 近年では最も会心の出来の書だったのに、端は鼠かなにかに囓られたように欠けてしまっている。
 鍾会は机の前で腕組みをして考えたが、良い案は思いつかなかった。

  🔸

 鍾会は何年もこの問題について検討を重ねた。
 何年も考えた末、彼が最終的に出した結論が、普通に自ら嵆康を訪ねて、こんなものを書いたが意見を聞きたいと話す、ということだった。

  🔸

 嵆康が、鍾会の讒言を受けて処刑されることになったのは、この鍾会の訪問を重さまたはその歴史といったものを理解できずに、軽く、雑にあしらったことが発端ではあったが、とはいえそれは嵆康の知る由もないことだったというのも事実だといえるだろう。

                                  完⚾

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