2017.11.19
6564文字 / 読了時間:8.2分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

馬前課の埋め方

 諸葛孔明には、たしかに、生まれつき予言能力があった。
 劉玄徳が曹操に敗れ、荊州の劉表を頼り新野に滞在していた頃のことである。
 孔明は、ただ隆中の畑付きの自宅で、畑を耕したり、周囲の森や川辺を散策したり、書物を読んだり、また友人や親戚たちと交際をしたりといった、平穏といえば平穏な日々を過ごしていた。
 夏のある日、孔明は小さな川にかかった橋の上で、友人の一人の崔州平と偶然出会った。
 孔明が先に話しかけた。
「おや、こんにちは。今日は良い天気ですね」
 孔明は、眩しそうに目を細めて空を見あげた。水色の空には、夏の太陽が丸く光り輝いている。
 孔明に気づいた崔州平は、立ち止まって返事をした。
「ああ、君か。僕はこれから釣りに行くよ。一緒に行くかい?」
 崔州平の落とす影が、木製の橋の上に黒々と伸びている。
 崔州平は笠を目深にかぶり、釣り竿を肩にかけていた。
「いえ、私はこれから届け物をしにいかなくてはならないのですよ。龐徳公のところに、酒とこの大根を届けなくてはならないのです」
「あの家は裕福そうなのに、どうして君がわざわざ持っていくんだい?」
「この酒は、私が作った特殊な酒です。こちらの大根もですね。他のものより随分大きいでしょう?」
「たしかに、そうかもしれないが……」
「そういうわけで、すみません。いずれ改めて一緒に釣りに行きましょう」
「そうか、わかった。じゃあこのままひとりで釣ってくるよ」
 孔明は、手を振って崔州平と別れると、再び歩きはじめた。
 孔明か進む道には、柳の並木が続いている。
 彼は柳の木の下を選んで歩いて行った。
 柳の枝が彼の冠に当たっては軽い音をたてる。音楽のような響きだと考えながら、更にぐんぐんと進んでいくと、やがて森に囲まれた小道に折れていった。
 真昼でも小暗い森は治安が悪かったが、ちょうど龐徳公の屋敷へ向かうには近道になっているのだった。
 孔明が気にせず森を進んでいくと、地元の盗賊の一団に遭遇した。
「おい、金目のものを置いていけ。手間をかけさせなければ命までは取らずに済ませてやらんでもないぞ。殺すのも疲れるからなあ……」
「おや、私ですよ。私からものを取り上げるんです?」
 孔明は涼しい顔で盗賊たちに声をかけた。
 すると盗賊の頭目が慌てて、孔明の前に姿を現すと、弁明をはじめた。
「いや、あなたとはわからなかったんですよ。いえ構わずお通りください。そうだ、いいものを手に入れたので、ぜひお納めください」
 盗賊が孔明に対してこんなふうな態度をとるのは、以前いろいろあって懲りることがあったからである。
「そう怖がらなくてもいいですよ。良いものですか?」
「はい、そうです。いや、多分そうだと思って取っておいたわけですが」
「ええ、確かにそれは良いものだと思いますよ。では、いただきましょう。ただでというのはまるで私が強奪しているみたいですから、この薬を差し上げましょう。頭痛によくきくのですよ」
 盗賊の頭目はちょうどこのときひどい頭痛に悩まされていたので、たいそう喜んで孔明と別れた。

   ■

 孔明がさらに進んでいくと、この辺を散歩していることが多い、友人の徐庶が岩の上に腰を下ろして歌を歌っているのが目にはいった。
 孔明は近づいていき、徐庶の背後から声をかけた。
「元直、今日は歌の練習ですか」
 すると、徐庶は特に驚いた風もなく振り返った。
「やあ、君か。そう、そのとおりだよ」
「正直、あまり上手くないですよね」
「わかっている。だから練習しているというわけさ。いずれは人前で披露できるくらいになりたいからね」
「熱心ですね。でもいいことだと思いますよ」
「ありがとう。そういえば、さっき森の中で見覚えのある馬を見かけたよ」
「おや、どんな馬です?」
「あれは、馬季常の馬じゃなかったかな。目の上に白い星があって、親近感が湧くといって大金をはたいて買っていたあの馬にちがいないと思う」
「わかりました。では、捕まえて私が彼に返してきますよ。さぞ心配しているでしょうから」
「そうだな。僕が追いかけても逃げてしまってね。盗賊たちには殺したりしないよう一応話をつけてあるが」
「さっき会いましたよ。彼らはあなたの撃剣を怖れているから、そう伝えてあるなら大丈夫ですよ」
「そうか。君にそう言ってもらえると安心するよ」
 徐庶にそう言われて、孔明は微笑を浮かべた。
「孔明、その手に持っているものは?」
「どちらの手に持っているものですか? 左で持っているのは、龐徳公に届ける新酒と大根です。そして右手に持っているのは、さっき盗賊にもらったものです。手紙ですね。あなたも読みますか?」
「いいのかな?」
「構わないですよ。私が隠す理由はないですから。ではどうぞ」
 孔明は、岩の上に座る徐庶に、手を伸ばして渡した。孔明はかなり長身ではあったが、とはいえ徐庶が登った岩もかなり大きかったので、徐庶にものを手渡すのは結構骨が折れることだった。
「ふむ……」
 徐庶が読みはじめると、孔明はしばらく黙って岩の表面の模様を見ていた。
「孔明、これをどうするつもりだい?」
「いや、何も。龐士元宛ですから、ついでに届けてあげるつもりですよ」
「最近君は配達ばかりやっているように見えるよ」
「配達は好きなんですよ」
「そうなんだ……」
 それから孔明は徐庶と別れて、再び歩き出した。

   ■

 森を抜け、孔明はようやく龐徳公の家に辿り着いた。
 龐徳公は孔明を歓迎し、家の中に招き入れた。
 それからすぐに孔明が持参した酒を器に注ぐと、口に含んで味を確かめていくのだった。
「良い出来栄えだな、孔明」
「お褒めにあずかり光栄です」
「この酒の作り方は、どの時代のものなのかね?」
「千年以上未来に、この辺りに酒蔵が作られました。その作り方を参考にいたしました」
「なのにせっかくのその予知能力を捨てるつもりだとは、惜しくはないのかね」
「惜しいといえば惜しいともいえますが、ただあの針のように頭につき刺さる未来とはこれ以上付き合いきれないと判断いたしました。必要な未来はすでに書き留めてありますから。翌日の朝食が何かを知るために、命を削るのは引き合わないのではないでしょうか?」
「そういうものかね」
「私はそう考えた次第です」
「まあ、お前自身のことなのだから、好きにすればよい」
 孔明が頭を下げると、龐徳公は話を続けた。
「そうだ、今日は他にも客が来ている。お前は誰かわかっているだろう?」
「そうですね」
「予知能力を捨て去る前に、言い当てて見せてくれないか?」
「士元が、周瑜を連れてきたのですね」
「うむ、そのとおりだ。彼は楽器の演奏が得意だから、彼に何か弾いてもらえるよう頼んでみようと思っていてな」
「彼は受けてくれますよ」
「それはよかった。それはそうと、彼は何をしに荊州に来たのだろうか?」
「盟友の孫策が死んで、とりあえず、弟の孫権に従ったものの、どうやら身の振り方を実際のところ迷っているようですね。それで、孫権のために荊州の賢人を招くという口実でやってきたということらしいです」
「なるほど。もしかすると、周瑜は本心では独立するつもりなのだろうか?」
「さあ。ただ孫権が期待はずれなら、そうするつもりはあるみたいですけどね」
「そうか。周瑜が、もし自立したら天下をとれるだろうか?」
「それは無理ですね。彼はそもそも長生きできませんから」
 龐徳公は首を傾げた。
「……ふむ。そうか。だが、決して一人ではない望気者が、今の荊州には皇帝の気があると告げている。それについてお前の意見はどうかね」
「私も同じ見解でございます。周瑜が自ら足を運んだのは、それを耳に挟んでのことかもしれません。とはいえ、それは彼ではありませんよ」
「誰だか、教えてはくれんのか?」
「未来を語りすぎると、未来は自らに飽き飽きしてしまうおそれがあります。そしてそのようなあり方は、本来的には過去のあり方に属するもの。そうなるとどうでしょう。私が未来を語ることにより、私は過去と、未来が過去化したものと、二つの過去に挟まれることになります。これはいわば、私が家に帰ろうと戸口を出ると、右も左もいずれも北側であるようなものです。つまり、世界はしばらくのあいだ病んでしまうわけです。過去化した期間のあいだだけですけれどもね」
「まあいいだろう。とりあえず、周瑜にはお前の予知能力のことは話さないでおくことにするか」
「そのようにお願いします。もう、その能力を始末するための穴も掘り終えましたから、今夜にでもこれは埋めてしまうつもりです」
「そうか……」

   ■

 その夜、龐徳公の屋敷では、盛大な宴会が行われた。
 夜も更けたころ、かなり酔いがまわった周瑜は、酒器を持ったまま孔明の隣に立ち止まり、こんなことを語りはじめた。
「伯符が死んで残念だ。彼の志を継いで私が天下を狙うとしたら、どうだろうか。君も私を手伝ってもらえないだろうか。君と最前、話してみてわかったことがある。君はまだ随分と若いが、君の秘めた才覚は、ちょうど今あそこにかかっているあの月のように輝かしい煌めきをもったものではないだろうか」
「私の家は隆中にあります。三度私を訪ねて来てくれたら、きっとその方は皇帝になることができますよ」
 周瑜は笑った。
「それでは君の友人は、皆皇帝になるということか。三度以上はみな訪ねているだろう」
「それもそうですね」
 孔明も微笑んで答えた。
 予知能力ではちょうど三度でなければならないのだったが、別段彼に伝えなくてもいいと孔明は考え、そのことについては何も言わなかった。

  *
 やがて、酒宴は終了した。
 孔明は深夜、満天の星空の下、森で捕まえてきた顔に二つの白い星のある馬に乗って家に戻った。
 孔明は、馬を庭の木につなぐと、月の光を頼りに自室に入っていった。
 それから、小さな石板を手に取ると、独り言をつぶやいた。
「馬の前に私の予知能力と予言は永遠に埋葬される――というのが、私の予知能力の運命でした。私はてっきり、馬というのは地名か、馬姓の誰かか、あるいはむかしから馬とか驢馬とかあだながついていた兄のことかと考えていたのですが、結局のところ、予知ではない予測は、ままはずれるものですよね」
 孔明が手に持っている石板は、夜の暗さのなかでは灰色に見えたが、本来は翡翠製で淡い緑色をしていた。そしてその平らな表面には彼の予言を記した古代文字がびっしりと刻みこまれていた。
 それから孔明は再び庭に出ると、繋がれた馬の傍らで、農作業のように鋤をふるって土を掘りはじめた。
 しばらく作業をすすめると、予め作ってあった地下の隧道の入口が現れ、孔明は地底の世界へ降りていった。
 そしてその奥に、石板と一緒に自らの予知能力を封印したのである。

   *

 翌朝、かなり遅い時間になって、孔明は同居している弟に身体をゆすられて起こされた。
「兄上、兄上、来客ですよ」
「うーむ、誰かな……」
「なぜ、兄上がそれがわからないのです?」
「昨夜、龐徳公の屋敷から帰ってから、私の予知能力を埋めてきました。どうやらその効果が現れたようですね」
「本気だったのですか」
「本気でしたよ。単に副作用が痛すぎるのもありますが、そもそも私の野心は占師になることじゃないですから。であればあの才能は、むしろ道を踏み外す余計な誘惑にすぎないと考えた方がいいでしょう……。で、来客でしたね。予知能力を使わなくても、大抵のことは推測することは可能です。当ててみましょう。来客は、徐元直ではないですか?」
「……はずれです、兄上」
「おや? しかしそれも想定の範囲です。では次は当ててみましょう」
「兄上、待たせすぎです。周公瑾殿ですよ。今日は暑いですから、外で立たせっぱなしでは気の毒ですよ」
「ええ、周公瑾殿、その名も想定通りでしたね。まあ、では話をしてきます。それにしても早朝から暑いですね」
「兄上、もうすぐ正午です……」
 孔明宅に通された周瑜は、質素な木製の机に向かって腰を下ろすと、孔明の弟・諸葛均が運んできた井戸水を飲み干した。
「周公瑾殿、わざわざ茅屋へご足労いただき光栄至極に存じます」
「いや孔明殿、堅苦しい挨拶は抜きにすることにしましょう」
「さようですか」
 部屋の中は蒸し暑かった。諸葛均が全ての窓を次々に開いていき、風が吹き抜けるようになってようやく暑さも多少和らいだ。
「私にどのようなご用件でしょうか?」
「うむ、いろいろあるが、龐士元から君について気になることを聞いた」
「どのようなことでしょう?」
「君は優れた占師であると」
「残念ながらそれは彼のかいかぶりでございましょう」
「そうか?」
「私が思うに、優れた占師というのは、自らが知りたいものについて知ることができる者のことをさすのではないでしょうか。なるほど、私は多少未来を見ることができます。ですが、それは夢以上に、私には何を見るか知ることができないのです。たとえば、私はあなたについていささか未来を占うことができます。そうですね、予測や当てずっぽうと見分けがつかない事例ではあなたも判断のしようが無いでしょうから、役には立たないけれども私の予知能力が真実であったとあなたに納得していただけるような予言を、今からお伝えしようと思うのですがよろしいでしょうか?」
「ぜひ、お願いしたい」
 孔明は、扇をあおぎながら、話りはじめた。
「ええ、それでは……。では、あなたが昨夜演奏していた琴の未来についてです。この琴は、ある秋の暮、酔っ払ったあなたによって、池に沈められてしまいます。そうしてその時あなたは、私の顔、そして私の言葉を思い出してより一層憂いを深めるのですね……」
「なるほど。とはいえ、質問して良いだろうか。もし私が今後、この占いを真実にしないために琴を今すぐ壊してしまったらどうだろうか。今は夏、この家にあるのは井戸程度で池は近くにない。どうかな?」
「占いを行うことあるいは占いを聞くことは、それ自体、未来に介入することです。ですから、たしかにあなたは占いを聞いてそれを成立させないための行動を取ることも可能です。ですが、それは占いを失敗させることを意味するのでしょうか」
「ふむ」
「あなたが想像しているのは、そのような世界なのだと思います。ですが、占師の世界あるいは占師の触れた世界の姿は、それとはいささか異なるのですよ」
「ほう?」
 周瑜は孔明の顔をじっと見つめた。
「あなたがもし今あの琴を破壊した場合、あなたは今後、琴を壊した世界、そして琴が私の予言どおり池に落ちる世界、これら複数の世界に生きることになるのです。ですがこれは、正直おすすめできない選択です。なぜかといえば、人の心は複数の世界に生きるようにはできていないのですから。占師が大抵の場合寡黙なのは、勿体をつけているだけではないのです。自分が生きる世界が二つくらいならまだ大丈夫なことは多いのですが、十を超えてしまうとまずほとんどの占師は、たとえどれだけ訓練していてもその環境に耐えきれません。ようするに、頭がおかしくなったり、病気になったりですね。ですから、そもそも予知や占いというのは養生の概念とは相反するものなのですよ」
「ふむ。そのような理屈は初めて聞いた。しかし、占師は不養生ということか」
「その通りです。ですから、ちょうど昨夜、私は占師を廃業することにいたしました。ですから、先ほどの琴の未来も今見たわけではなく、昨夜見た未来だったわけです」
「しかし、惜しくはないのか?」
「いえ、私に必要な未来は見終わってしまいましたから。それは、私の胸中に残っております。もう、私には必要ないのですよ……」
   *
 周瑜が帰っていった時には、すでに家の前に広がっている空は夕焼に染まっていた。
 家の前で周瑜を見送ったあと、孔明は庭に向かった。
 百日紅の花の下に、馬は繋がれたまま、彼の顔を見つめた。
 孔明は黙ったまま箒を持ってくると、石板を埋めた穴の痕跡を消していった。土の上に落ちた百日紅の花が、箒に飛ばされて壁に当たった。

                                 (完)

短編集「帽子の中のふにゃふにゃな歴史」index

(2016年8月11日)









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