2017.11.19
5468文字 / 読了時間:6.8分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

淑女と吊られた男(一)

※(二)は未公開

■施績の多少風変わりな家庭事情について

[愚者-The Fool]

 呉の施績には、少し風変わりな娘がひとりいた。
 彼女の名前は淑女といい、五鳳年間(254-256)、父である施績が姓を朱から施に変えたとき――彼は元来は施姓で元に戻したのである――、彼女は嫁ぎ先でその知らせを聞いたのであるが、ひどくそれを残念に感じたのだった。
 ――ある瞬間から、自分の名前が忽然と別のものに切り替えられること。それは自分の顔が突然別人の顔と取り替えられる感覚に近いだろうか?
 そんなことを考えながら、朱淑女改め施淑女は、婚家の庭で掃き掃除をしていた。
 庭一面、いつまで経っても一面の落葉は大して消えなかったが、ふと、木の根元に見慣れない箱があることに気づいた。近づいてみると箱の中には数匹の子猫がいて、彼女の姿を見ると鳴き声をあげた。
 淑女は可哀想に思い、子猫たちの世話をしてやったが、結局生き残ったのは一匹だけだった。
 その生き残った子猫に、淑女は〈朱氏〉と名付けることにした。ようするに、自身の行き場を失ったそれまでの姓をその子猫に譲り与えたのである。
 ――これで、宙ぶらりんになった以前の名前に行き場所を与えてあげられた。
 と、彼女はほっとして喜んだ。

        *

 子猫が一歳を迎えた頃、淑女の夫は久しぶりに家に帰ってきた。
 そして、まもなく淑女は一方的に離縁されたが、彼女自身のそれに対する解釈は次のようなものであった。
 ――おそらく彼は、不在の間に姓が変わりそれに従って運勢や人格も変った自分の変化を受け入れることができなかったのに違いない。彼は私の代わりのように、私の名前を引き継いだ猫を扱っているのがその証左ではないだろうか……?
 なにはともあれ、こうした経緯で彼女は自身の父親の元に戻ることとなったのである。

        *

 施淑女にとって、父親に会うのは久しぶりだった。
 姓の変わった父親はどこか他人めいて見えたが、案に反して、実家に戻された娘にたいして腹を立てていないようだった。
 父親の部屋に呼びだされた淑女は父親に向かって尋ねた。
「父上、よくわからない理由で離縁されてきた私を怒らないのですか? 私が結婚するときはあれだけ許さないとおっしゃったのに」
「帰ってきてしまったものは仕方ないだろう」
「では、あちらの家が悪いとお考えなのですか?」
「さあな、正直わしはよく知らん。――ただ言えることは、だ。わしの状況もあの時からいろいろ変わった。お前が戻ってきたことは、現時点のわしにとっては決して悪い話ではない。――とはいえ、わしが死ぬほど忙しいのにお前は家で何もしないでごろごろしているのを許すのも癪だから、これからはまたわしのために力を尽くすように。もう離縁された家のことは忘れて構わんから」
「わかりました。では父上、あちらの家の姓が何だったかもすべて、私の記憶から消し去ってしまうことにしますね」
「好きにしろ」
 こうして施淑女はこの時以降、かつての嫁ぎ先の姓をはじめとした情報の一切を自身の記憶から消し去ったのである。

        *

 やがて彼女はこの家でも捨て猫を拾った。今度は〈陸氏〉と名付けた。
 彼女は猫の名前に身近な人間や思い浮かんだ人間の姓をつける習慣を、いつのころからか持っていた。
 彼女がこの猫を〈陸氏〉と名付けたのは、たまたま施績のところへ陸某から贈られてきていた蜜柑が目の前にあったからだったが、しかし数日後には彼女自身も理由を忘れてしまっていた。

        *

■施淑女の特別な能力と王昶の思い出

[魔術師-The Magician]

 ところで、施淑女は生まれつき特殊な能力を持っていた。
 それはかなり強力な千里眼の能力で、父親の施績が娘の出戻りを歓迎していたのは、この能力を自分のために利用することを考えていたためでもあった。
 やがて施淑女は、父親の命を受けて荊州の北に位置する魏の城の見取り図を作り上げた。
 彼女の千里眼はまるでその場にいるかのように遠くの世界を見ることができたから、その図面はかなり精確で役に立つものではあった。ただし、施績の再三の指導も虚しく、彼女自身は正確さにあまり興味を持たなかったため、ところどころ彼女の創作した通路や抜け道、迷路、あるいは変わった塔や像、猫や犬などがところどころ気ままに追加されている点については取り扱いに注意が必要という代物ではあった。
 施績は淑女を呼び出すと、完成した図面を広げて問いただした。
「淑女よ。なぜ、王昶は城門の前に傾いた塔を建てなければならんと考えたのだ?」

[塔-The Tower]

 王昶とは荊州に駐在する魏の人で、施績とは度々戦ったことがあった――施績は何度か負けていた――という人物である。
 淑女は、父親がこの王昶の悪口を言ったり、早く死なないかなといったことを口走るのを以前からよく耳にしていた。施績が〈王昶〉という名前を口にするとき、その響きはいつも他の言葉から浮上するような独特な重量感を持っているかのように感じられた。
「さあ……。よくわかりませんが、不便ですよね。でも塔がよく見えるからと考えたのかも知れませんね」
「お前が勝手に書き足したのだろうが、馬鹿者め。自分でも忘れるような落書きを勝手に書き入れるな」
「門の前が、多分寂しいと思ったからかもしれませんね。だって父上そう思いませんか?」
「一瞬たりとも思わん」
「父上には美意識が欠けているきらいがあります。そこは父上の欠点ですよね。他にもないとはいいませんが」
「お前に言われたくはないな」
「そうですか?」
 施績はそれ以上その話題には取り合わなかった。
 腕を組み直すと、別の話を切り出した。
「そうだな、次は洛陽にとりかかってもらおうか」
「洛陽。魏の都ですね。中原の都。かつては漢の都。それはとても楽しみです。そういえば父上、私、最近洛陽に住んでいた女の人とお話したことがあるのですが、その人に色々教えてもらったんです。洛陽で一番景色が綺麗な場所、一番見所の建物、美味しい食べ物、流行りの服装、洛陽の街の歩き方、洛陽にしかいない猫……」
「……淑女、わしは洛陽に遊びに行くための下調べをしろと言っているわけではないからな」
「あら、そうだったんですか?」
「それが終わったら、次はまた荊州の調査に取り掛かってくれ。魏はもういいから、呉の方だ」
「また荊州なんですか?」
 淑女は不服そうな表情で聞き返した。
「わしは完全な情報を手元に揃えておかないとどうにも落ち着かん性質なのだ。すべての荊州のことをもっとよく知りたくて、夜もあまり熟睡できないほどだ……」
「眠れないのは、不摂生が悪いんじゃないですか?」
「やかましい。親に向って余計な指図などせんでいい」
「はい、それは失礼いたしました」
「いいから、地図だ。荊州の、それを見るだけでその地の担当者が今何を考え、何をしているか眼前に浮かび上がって見えてくるような、その息遣いさえ伝わってくるような、そんな真実を写し出す地図がわしは欲しいのだ」
「父上……。あいかわらずわがまますぎすぎで、無理難題をふっかけすぎです。いいですか? 千里眼で地図を作るのも結構手間がかかるのですよ。遠くまでみることはできるといっても特定の場所を探し出すのは大変なんです。私はこの前新野の場所を探すだけで数日間さまよい続けましたから。――だいたい呉のことでしたら、同じ国の仲間同士のことではありませんか。私に調べさせなくても、誰かに頼んで教えてもらえばいいんじゃないですか?」
「同僚は別に仲間ではないという問題がある。だからお前に命じるわけだ」
「そうですか」
「呉といえば、諸葛格がやっと死んだと思えば次に出てきたのは孫峻で、孫峻がようやくくたばったかと思えば次は孫綝がのさばりはじめる始末。我が国の未来は暗澹とするにも程がある。もしかすると、呉の未来にわしの居場所があると考えるのは幻想ではないかと時折考えるほどだ」
「そうなんですか」
「ああ、そうだ。だから、念のためわしは自分の周辺の事情を把握しておきたいのだよ。ろくでもないことに巻き込まれないために」
「わかりました。そういうことでしたら、また頑張ってみますが。父上が身を滅ぼしたら、私も困りますからね」

■施績と子猫との未来に関する対話

[正義-Justice]

 その夜、施績は柱に寄りかかって座り、部屋に迷い込んできた子猫の陸氏としばらく遊んでやっていた。それから、窓の外で時折星降り注ぐ流れ星を数えながら、様々な問題に思いを巡らせたりもしていた。
 この時、施績が考えていた内容のいくつかについて。
 蜀へ送った密書の返事が遅いのではないか、発覚していないだろうかという危惧。
 寿春の孫綝をどういう理屈で言いくるめて諸葛誕救援のための援軍を出さずに済ますか(施績にとってこの時期一番死んでほしいのは孫綝だったからである)。
 魏の鍾会とかいうまだかなり若い謀臣から届いた魏への亡命の誘いの密書の返事をどうするかについて。
 ついでに、この男は書家として魏ではかなり知られているらしく、呉の珍しい書があればいくらでも出すという私信も添えられていた。施績は軍資金の足しになることを期待して、手持ちの書を売ってやってもいいかもしれないと検討していたのだった。

[星-The Star]

 施績は、子猫の陸氏の小さな背中をなでながら独り言を呟いた。
 「――陸遜の手紙ならまだ大量に箪笥の中に残っていたな。陸遜ならかつて丞相だったし、呉の有名人としては充分だろう。残しておいてもわしの役にたつわけでもないし、とりあえずあの鍾会とやらに恩を売っておくか……。なあ、陸氏、お前はどう考える?」
 施績が子猫の頭を指先で軽く弾くと、猫はにゃあと鳴いた。
「よし、なるほど、値段をできるかぎり釣りあげればいいのだな。わかった、お前の言うとおり、そう返事を書くことにしよう」
 それからまた施績は子猫に向って問いかけた。
「なあ、お前は魏・蜀・呉の三国のうちどの国が一番最初に滅びると思う? わしの見るところ、どの国も皆くたびれてきているように思える。まだ建国から四十年経った国もないというのに、どうやら国の寿命は、猫よりは長いが人よりは短いと考えていいのではないだろうか?」
 その瞬間、子猫は窓のほうをじっと見つめていた。
 子猫に窓の外の星空が見えたのかは定かではない。だが、その視線につられて施績も夜空を見やると、ちょうど流れ星が消失していく瞬間が見えたのだった。
「いや、お前は殷とか周とかを持ち出すつもりかね。その目は? そういえばお前の目の色は左右で異なっているのだな、まあいいが。――千年生きて仙人になる猫がいるからといって猫の寿命は伸びるわけでもない。国の寿命は年々歳々縮まって行く。だがその分、建国の困難さの度合いも下がって行くということはあるかもしれないな……」
 子猫はしばらく座ったまま陸績の顔を見上げていたが、やがて疲れたのかあくびをすると、ぐったりと横になり瞼を閉じて行った。
「……呉が末期的なことはいうまでもないだろう。お前がどこの陸氏かは知らんが、仮にも呉の地に住んでいるのであれば、この今にも風化して消えてしまいそうな国の予兆を肌で感じた瞬間もあったのではないだろうか。――魏も、このままいけば司馬氏の世になりそうだ。だから、魏には亡命を誘われてはいるが、無駄になるのではないかとためらわれるわけだ……」
 子猫は一度閉じていた目をあけたが、また丸まって目をつぶった。単に、一方的に話しかけてくる施績の声がやかましくて寝付けなかったのかもしれなかった。
「では、蜀はどうなんだろうな。このあいだ姜維が鄧艾に大敗したのが致命傷になるのか、それとも挽回することは可能なのか。ただ呉と魏が自滅するなら、蜀は漁夫の利を得ることはできるかもしれない。その可能性には惹かれるところはあるわけだが、どうだ……」
 窓の外を淡い光の流星が音もなく落ちて行った。
 子猫はすやすやと施績の膝の上で眠っていた。薄い茶色と白の模様は、どこかの朝霧か夕霧に沈んだ風景を思い出させた。
「そして結局のところ国の寿命は短くなったかもしれんが、人の心の寿命もまた縮んできている気もするな。今のわしにとっては、この国に対する昔日の忠誠心や愛着はすでに燃え尽きて消え失せて久しい。大抵の者もすでにそんな状況ではないか。――たとえば、恋の感情は常に一定の期間を過ぎると跡形もなく消え失せてしまうものだ。冬にうっすらと降り積もった雪が溶けて行くように……。それと、国への忠誠心や愛着も、同じ人の心のことである以上、同じことなのではなかろうか?」
 施績は再び子猫の背中をなでていった。指先が薄茶色い尻尾の先にたどり着いたところで、施績は猫から手を離すと、机の上においてあった茶碗を取った。
 そして施績は緑茶を飲みながら、この先は独り言ではなく、心のなかで呟いた。
 ――ふむ。だが、わしの猫への愛着が冷める日が来るかは怪しい気もするが、どうななろうな。今のはあまり気が利いた思いつきでもなかったかもしれん。わしもたまには鋭いのだが、すべてがそうなるわけではない。結局は手数の問題だなのだろうとは思う。それにしても、我ながら呆れる話だ。なぜ、わしは猫と会話をせねばならんのか……?

(続く)

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