2017.11.19
4783文字 / 読了時間:6分程度
帽子の中のふにゃふにゃな歴史

廖立と大熊猫

 武陵の廖立《りょうりつ》は博学多識、建安の末年、若くして龐統とともに楚の良才と賞賛されたが、やはり性、狷介《けんかい》、自ら恃むところ頗る厚く、李厳等賤吏の下に甘んずるを潔しとしなかった。

(一)廖立城

 廖立は、失脚して諸葛亮に庶民に落とされた後、汶山で庶民として暮らしはじめた。しかし、生来、気位の高い彼にはその境遇は耐え難かった。
 そこで廖立は、自らの矜持を保つためにそれまでの方針を改め、逸民伝に名を残す方向性の道を選ぶことを思いたち、妻子を捨てて――ただし対外的には家の畑を耕しているのは自分だということにするようにきつく命じて――、山に登ると、再び家に戻ることはなかった。
 山頂の土の上に腰をおろし、大木に寄りかかって膝を腕で抱えこんだ。
 それから、回想されてゆく廖立の幸福な日々の思い出……。
 まだ若く希望に満ち溢れていたころ、廖立は、龐統と並び称され、人々からもてはやされる日々を過ごしていた。廖立が故郷の道を歩くと、常に賞賛や羨望、憧れの眼差しが彼を四方から突き刺さってくるのだった。
 ――あの視線の矢に遅効性の毒が混ざっていたのかもしれないな、と夢の中の若き日の廖立が推測したところで目が覚めた。
 目を開けると、寄りかかっている松の木の梢が見える。その先には薄曇りの空が広がっていた。
 松の枝には、不如帰《ほととぎす》が止まり、鳴いていた。
 不如帰は、蜀に帰りたがっている蜀王の魂だといわれている。
 ――俺も帰りたいよ、どこか、俺自身の居るべき場所へ……。
 と、廖立は膝を抱えて腰を下ろしたまま鳥に話しかけたが、鳥は煩わしいとでも思ったのか――廖立は不遇続きで大概僻みっぽくなっていた――すぐにばさばさと飛び去ってしまった。
 ――あれは、不如帰ではなかったのかもしれんな。なぜなら、俺の知っている不如帰の数倍の大きさだったからな……。
 遠くの山では、死んだ馬謖の魂が山に登っているのが見えた。
 ――生前のあの男は思い上がった馬鹿な奴だと考えていたが、ほれみろ、俺の言っていたとおりになったじゃないか。
 廖立は、馬謖の失敗のこと、それを予測していた自分の賢明さを思い、自分の人並外れた才能を、手を叩いて祝福するのだった。
 ――俺はなぜこれほど賢明なのだろうか? 世界は様々な謎で満ちているが、しかし最も不思議でならないのはこの謎ではないか。なぜ俺は、これほどまでに選ばれた存在なのだろうか……。
 かつて故郷で並び称された龐統はすでに落鳳坡で戦死していて、幽鬼となって益州の地をさまよっていたが、時折廖立のところを訪ねてくることもあった。
 廖立の今の棲家は、山頂のこぢんまりとした庵である。先住の松の木の妖魔と戦い勝ち取った、彼の城でもあった。
 廖立城。
 龐統は、幽鬼となった孤独を癒やすために、わさわざ騒がしい廖立を訪ねたのであるから、廖立の自慢話や罵詈雑言も、にやにや笑いをうかべながら、未開の地の馴染みのない珍酒――決して強いわけでもない――のように、ただ楽しんだ。
 ――お前は、鳳雛と言われていたが、今は鳳になったのか?
 廖立があざ笑いながら尋ねると、龐統は黙って頷いた。
 ――そうか。俺は、若い頃、そんな別名をついに誰にもつけてもらっことがなかった。それは、つけた奴の権威に屈することだと、その権威に依存することだと思い、到底受け入れることはできないと考えていたのだ。思えば俺は、あまりにも純真だった、純粋過ぎたのだ。ああ、俺にせめてお前の半分ほどの俗物根性があれば、俺の才とあわせれば今頃天下にその名を轟かすこともできていただろうに……。
 龐統は死後、さまざまな魔術を使いこなせるようになっていた。
 火や風を起こしたり、あるいは空中から酒を降り注がせることもできた。
 廖立は、龐統が空中から出現させて注いだ酒を飲みながら、夜が更けるまで恨み言を続けた。
 気がつくと、廖立の目の前には誰もいなくなっていた。
 ――龐統はいつの間にか帰ったのか。鳳が飛び去る姿を観た気がするが、夢だったか……。
 廖立は、何か自分自身の身体に違和感を覚えた。
 気がついた時には、廖立自身も、人間とは違う存在に変身していた。
 廖立は不安になって、四足で一番近くの池まで走って行き、水面に姿を映して見た。
 そこには、白と黒の毛皮の巨大な熊猫が映っていた。
 廖立はぼんやり、龐統の言っていたことを思い出した。
 ――自分が今、君の別名をつけてあげよう。
 そして、龐統が〈臥大熊猫〉の名前をあげたところで、自分はどうでもよくなって話を遮って終わらせたのではなかったか……。

(二)大熊猫城

 酔いが醒めると、廖立は大熊猫から人間の姿に戻った。
 ――まあ、ずっと獣になるはめにならずにすんで不幸中の幸いではあったか。龐統の奴、嫌がらせにこんな呪いをかけていきやがって、次に会ったら許さんぞ。どうしてくれようか。それにしても、俺の人生、こんなことばっかりだ……。
 飲酒をすると大熊猫になる。
 とはいえ廖立は、新たに手に入れた能力を捨てるつもりはさらさらなかった。
 彼がこの能力の研鑽に励むこと数年にして、諸葛亮が死んだということを知った。
 廖立は、諸葛亮が自分を忘れたまま死んでいったことを思い、涙を流したが、とはいえその涙には、利己的なものだけでなく、多少の真実の悲哀も含まれていないわけではなかった。廖立は、自分でもそれなりに気づいていたように、純粋な心をそれなりに持っていたからである。
 その後、姜維が汶山に来ることがあった。彼の率いる軍勢がちょうど廖立城の真下をとおり過ぎようとしていた。
 山頂から、それを見た廖立は、思い立って下界に降りていくことにした。
 たまたまこのときは、無聊を紛らすために酒を飲んでいたところだったから大熊猫の姿になっていたが、大して気にもとめなかった。廖立のなかで姜維とは鷹揚な男だと――彼自身よりかなり若かったが――そんな風に人物像が作り上げられていたからである。
「やあ、姜伯約。俺だよ、俺……」
 目の前に忽然と姿を現した白黒の熊的な何かに姜維は内心ひどく驚いたが、そのことは表に出さずに、これが何かの可能性について考えを巡らせた。
 ――ここは汶山で、汶山でここまで馴れ馴れしく私に話しかけてくるような可能性がある者といえば、廖立以外に思いつかないな……。
 そこで、姜維は高確率で廖立であるだろうと判断して、こう返した。
「廖公淵殿ですね。見た目は多少変わったとはいえ、魂の本質は変わらないもの。この私の目を欺くことはできませんよ。何はともあれ、相変わらず意気軒昂そうでなによりですな」
 廖立は、姜維が自分を覚えていたのでたいそう喜んだ。
 姜維の言葉を耳にして、廖立は久しぶりに人間の声を聞いた、と思った。
 にわかに廖立の心の中に、酒浸りの日々のうちにいつしか忘れかけていた、人間としての大志が蘇ってきた。
 大熊猫の姿はまだ解けなかったが、廖立は彼なりに表情を改めて、長々と姜維に語りかけた。
「姜伯約殿。実は頼みたいことがあるのです。いやなに、今更、私は諸葛亮の次くらいの才能はあるのだから丞相にしろだとか、大将軍にしろだとか、むしろ禅譲しろだとか言い出すつもりはありません。ただ、一人の人間として、これだけは捨て去ることができないものがあるのです。それは何か? それは、矜持であり、野心でもあり、大志とも言うことができる何かです。あなたであれば、私の心をきっと理解できるでしょう。あなたは、志のために母親を捨てた、また孝行であるという世渡りには何かと役に立つ評価を自ら投げ捨てた。その心意気を私は高く評価しているのです。では、私があなたに頼みたいこととは何でしょうか。それは、私に歴史に名を残す仕事をする機会を与えてほしい、ただそれだけのことに過ぎません。できることなら、私はあなたの北伐を成功に導いてあげたい。ですが、残念ながら私の才能は軍事向きではないのです。才能と一口に行っても種類はさまさまですからね。では、私は何か得意だと自信を持っていえるのか。それは文才です。私の書き溜めた詩は、有象無象のそれとは根本的に異なっている、新たなそして本物の詩とは何かを人々に教示するいずれも至高の作品です。詩における夢と現実との融合あるいは結婚――この試みに私ほど成功した詩人はいまだかつて存在しませんでした。これらの作品を特別にあなたにお渡ししましょう。それからもう一つ。私にこの国の歴史書を書くことをぜひ任せてもらいたいのです。それを陛下に進言していただけないでしょうか。もし、それが叶いましたなら、その新しい歴史書の著者の一人としてあなたお名前を出していただいて構いません。そうすればあなたの名声は、私の名とともに末永く残ることでしょう……」
 姜維は、馬上で腕を組んだまま、しばらく考えこんだ。
 廖立は姜維の顔を見上げていた。姜維の顔の向こうには曇り空が広がっていた。
 それから廖立は、久しぶりに人間の言葉をきっちり発声して喋ったせいで、かなり舌が疲れていることに気づいた。
 やがて姜維は口を開き、前向きに検討する、と廖立に告げた。
 廖立は希望に満ちて、大熊猫の姿のまま、再びねぐらの廖立城へ四本足で走って戻った。
 地元の村から新たに強奪してきた筆記道具を机の上に並べると、廖立は姜維からの正式な依頼も待たずに、蜀の歴史書の原稿作成にとりかかった。
 人間に戻った廖立の手が筆をとり、すらすらと文字が綴られていく。
 さすがに、若年から才能をうたわれていただけあり、次々と紡ぎだされてくる文章は最初から最後まで天衣無縫ともいうべき見事な完成度だった。
 全巻を書き終えたころ、姜維から使者がおくられてきた。
 廖立の願いは聞き入れられて、廖立の書いたそれが公式な歴史書として採用されることが決まったと使者が告げた。
 廖立は大いに喜んで、酒宴を開いて使者をもてなした。
 酒の酔がまわり大熊猫になった廖立は、朝まではしゃぎつづけた。
 やがて廖立から原稿を手渡された使者は、涪の姜維のもとに戻った。
 姜維は、廖立の歴史書を読んでその出来栄えに感心したが、実際のところ、まだこのことは誰にも話していなかった。
 色々忙しかったためでもあり、またもっと優先すべきことが山積していると考えていたためでもあった。
 とはいえいずれ落ち着いたところでこの話も切り出そうと考えていたところ、廖立が死んだという知らせが届いた。
 酔っ払って山で眠っていたところ、地元の猟師に射殺されたのだという。
 いろいろ事情が重なって巡り巡って賄賂として太守に献上された大熊猫肉の干肉が、涪にも贈られてきた。
 姜維は、酒の肴になった干肉を前にして、廖立を気の毒に思ったが、ちょうど涪に到着したばかりの蒋琬が目の前にいて、干肉を黙々と食べていたので、それはもとは廖立だと切りだす気にはなれなかった。

(完)

 

(備考)
■「武陵の廖立は博学多識、建安の末年、若くして」……山の日(8/11)記念で、「山月記」リスペクト(http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html)。
■廖立と姜維が会ったのはいつ?……色々考えた末、242-243年くらいに今回は想定。廖立の没年は不明なので、この死に方は創作(大熊猫にも多分なっていない)。
■蒋琬……蒋琬が涪に来たのは243年(姜維は242年)。涪の蒋琬と姜維を出したかったという理由で、ラスト243年にこだわった。

(2016年8月12日)

備考

再公開にあたり「大熊猫」から「廖立と大熊猫」に改題。
自分でも何の話かわからなかったため……。

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